「戻ってきたんだな」回廊の円柱の陰から声がして、歩きながらちらと目を遣ると、あおとあが腕を組んで柱に凭れていました。不在の間に溜まった雑用に追われて朝から忙しくしていたふぁきあは、その横を通り過ぎながら短く答えました。
「ああ」
「やれやれというわけだ」ふぁきあは思わず立ち止まり、硬い表情で振り向きました。
「心配はいらない。俺は自分を抑えてみせる」
本当はそんなに自信が有るわけではありませんでしたが、もう他に選択肢はありませんでした。しかしあおとあは、腕をほどいて身を起こしながら、皮肉っぽく片方の口の端を吊り上げ、意外な事を言いました。
「そうあって欲しいものだ。だが、そういう意味ではないよ。君がいない間、プリンセス・チュチュの面倒をみるのが、予想以上に大変だったということさ。君がいれば、あれほど苦労させられずにすんだのではないかと思ってね。どうやら彼女は君にずいぶんとなついていたらしいな」
ふぁきあははっと身構えましたが、あおとあは気にする様子も無く続けました。
「彼女は口にこそ出さなかったが、君の話が出るたびに頼りなげな表情になるので、すぐ気づいた。それに君が去ってからの彼女はいつもどこか不安そうでね。明るく振舞ってはいたが、無理をしているのは僕には見て取れたよ。あと、なんと言ったか、あの二人の騒がしい侍女達も気づいていたようだが。さすがに僕も心配して、にぎやかにしていれば気もまぎれるかと、舞踏会を企画した。彼女もそろそろここに慣れてきたようだし、王子の花嫁披露を兼ねてね・・・しかし、君が早々に舞い戻ってくるなら心配する必要は無かったな」
あひるの涙を思い出して胸が痛み、ふぁきあは、あおとあの嫌味な口調にも何も言い返すことができませんでした。あおとあはそんなふぁきあを見て肩をすくめました。
「舞踏会は明日だ。君も出席したまえ。ただし・・・」
「分かってる。言われるまでもない。身の程は知っている」釘を刺しかけたあおとあをふぁきあは遮りました。惨めな自分の立場など、改めて聞く気にはなれませんでした。
「結構」
あおとあは不服そうに眉を上げましたが、口にしたのはそれだけでした。ふぁきあは、言い訳じみていると思いながらも、昨夜の約束のこともあり、いつになく言い募りました。
「俺はあいつの傍で、あいつを守り、支えてやりたいだけだ。・・・プリンセス・クレールの代わりだからな」
最後にやや俯いて、独り言のように付け加えた言葉に、あおとあは怪訝な表情になりました。
「はあ?」
「俺はプリンセス・クレールに似てるんだそうだ」どこがだ?と露骨に顔を顰めたあおとあに、ふぁきあは苦笑を見せて、訊かれないままに答えました。
「俺もそう思う。だが、あいつには似て見えるらしい。・・・いずれにせよ、俺は男として見られてない」
「それは・・・」口を開きかけたあおとあは、中庭の方から二人を見つけて近づいてくる人影に目を留めました。
「早いな。もう見つけられたようだ」
再びふぁきあに視線を戻し、あおとあはやや声を潜めました。
「分かっているだろうが、人目は気にするように」
言いたい事だけ言ってしまうと、あおとあはさっさと歩み去ってしまいました。
「ふぁきあ」
残されたふぁきあにあひるが近づき、話しかけてきました。
「何話してたの」
「別に。ただの雑談だ」ふぁきあの視線は、角を曲がって姿を消そうとするあおとあの後姿に据えられていました。一緒にあおとあを見送ってから、あひるはふぁきあに向き直りました。
「あたし、あおとあさんってちょっと苦手」
「あいつが得意な奴はいない、王子を除いては。だがあいつは、話が大袈裟になるきらいはあるが、嘘はつかない。潔癖で、裏のない奴だ」
「ふうん」ふぁきあの返事に納得したのか、あひるはあおとあが去った方をしばらく黙って見ていました。それから、ふいに思い出したという様子で振り向きました。
「あっ、そうだ、明日、舞踏会があるんだって」
「ああ、聞いた」
「あたしが踊るの好きって言ったら、王子様が、たくさん踊ってくれるって」嬉しそうに無邪気に笑うあひるは、ふぁきあを傷つけていることに気がついていませんでした。
「ふぁきあも踊ってくれる?」
一瞬の間の後、ふぁきあは答えました。
「・・・いや、俺は踊らない」
「えっ、なんで?」「俺は王子の近衛だ。王子やお前を守るのが仕事だ」
ふぁきあはそれが当然だと言わんばかりでしたが、あひるは食い下がりました。
「でも一曲くらい・・・」
「それより」あひるの言葉を断ち切り、ふぁきあは命令口調で言いました。
「あまり気軽に男に話しかけるな。もちろん俺にもだ」
「えっ?どして?」あひるは言われた事がよく呑み込めないという風情でした。
「俺はお前の身を守ることはできるが、悪意のある噂や中傷からは守ってやれない。だから自分で気をつけるんだ」
「どういうこと?」さっぱり分からないという顔で訊き返すあひるに、ふぁきあは自分がいらついていることを自覚しましたが、それがあひるの無知に対するものなのか、それとも他に理由があるのかは分かりませんでした。
「お前はもう、ただの姫君じゃない。王子の妃らしく振舞えってことだ」
急に傷ついた表情になったあひるに、ふぁきあは後悔めいた苦さを覚えました。しかし、それを隠して強い調子で言い含めました。
「とにかく言うとおりにしろ。いいな」
「あっ、待っ・・・」顔を背けて歩き出したふぁきあをあひるは呼び止めようとしましたが、ふぁきあは足早に去ってしまいました。
あひるはもう一度ちゃんとふぁきあと話したいと思い、翌日も朝から機会を窺っていましたが、結局、声をかけることもできないまま、夕方になってしまいました。日はまだ沈みきっておらず、辺りは赤味がかった黄金色に包まれていました。中庭の正面にある、王子と初めて会った建物の二階にある広間には、既に灯りが燈され、ざわめきの様子からすると、もうかなりの人が集まっているようでした。優美で軽やかな音楽が外まで流れてきて、たぶん、踊り始めている人々もいるらしいことが窺えました。
あひるは、御披露目ということで念入りに身支度を整えられ、しずしずと広間に向かっていました。ノルドの人達の反感を招かないよう、付き添う従者の数は最低限に絞り、広間の手前の部屋から先へは、あんぬととまりいだけを伴うことにしました。あひるは胸下からたくさんの襞が裾にむけて緩やかに広がっている、白を基調にした舞踏向きの衣装に身を包み、煌く燈火をうけて、文句の付けようも無いほど美しく、可憐に見えました。そして、緻密な刺繍で飾られた、広く開いた襟元には、いつもどおり、涙の形の赤い石が輝いていました。
あひるに気づいた人々が遠巻きに見守る中、できうる限り優雅に広間に歩み入ろうとしたあひるは、少し離れた壁際に探していた人を見つけて、いきなり立ち止まりました。いつものより上等そうな深い碧の上衣と、旅の時とは違う綺麗な短いマントを身に着け、見慣れた重々しい剣の柄頭に左手を載せて、背筋を伸ばして立っているふぁきあの姿は、たくさんの人々の中でも際立って見えて、なぜか急にあひるの動悸が高まりました。そんな自分に不審を抱きつつも、この機会を捉えてふぁきあに話しかけようとしたあひるの言葉は、しかし、次の瞬間、喉元で止まってしまいました。
「まあまあまあ!あれは誰かしら?」
「うわ、綺麗な人・・・って、えっ!ふぁきあ様が笑った?!」
「年上の恋人なんて、ふぁきあ様も隅に置けないわねぇ」まりいとあんぬが隣で騒ぎ立てるのを聞きつつ、あひるは、親密げな雰囲気で語り合う黒髪の美しい女性とふぁきあを、呆然と見つめていました。
(・・・えっと・・・)
なぜ声をかけるのをためらったのか、自分でも分かりませんでした。が、ふぁきあの腕に手を掛けた女性の愛情の籠もった仕種と、その女性に向けられたふぁきあの優しい微笑が、胸に突き刺さったような気がしました。その時、女性があひるに気づき、その視線につられてふぁきあがあひるの方を振り向きました。あひるははっと気を取り直し、何か話そうと口を開きかけました。しかしふぁきあは、あひると目が合うなり顔を背け、素早く身を翻して立ち去ってしまいました。(ふぁきあ!なんで?)
訳が分からないまま立ち尽くしているあひるの耳に、式部官があひるの来場を告げる声が聞こえてきました。
「ジークフリート王子妃、プリンセス・チュチュ」
慌てて振り返ると、いつにも増して輝かしい姿の王子が近づいて来るところでした。
「チュチュ」
「あ・・・遅くなってごめんなさい、王子」
「ううん。チュチュがゆっくり来てくれた方が、皆も待つ楽しみがあるから。ちょうど良かったよ」
「王子・・・」
「踊ろう、チュチュ」王子は優しく笑ってあひるの手を取り、広間の中央へと導いて行きました。王と王妃はまたしても体の不調を理由に欠席していましたが、あひるは気にしないようにしました。王子とあひるは、深く頭を垂れる人々の前を通って真ん中まで来ると、向かい合って立ち、優雅に会釈をして踊り始めました。まるで二羽の鳥のように軽やかに舞う二人に、人々は感嘆の声を上げました。しかしあひるは、明るい微笑を浮かべて踊りながらも、何とも言えない違和感を感じていました。
(どうしてかな・・・?あんまり楽しくない。いつもより上手に踊れてるのに・・・)
ふとあひるは、旅の途中、町の祭りでふぁきあと踊った時の幸せな気持ちを思い出し、切なくなりました。
(・・・ふぁきあ・・・)
踊りながら目の端でふぁきあを探し続けましたが、彼の姿をちらりとも捉えることはできませんでした。上の空のまま何曲か踊り、音楽が途切れて、あひるは王子に手をとられて大きな窓の方へと歩き出しました。そこに、砂色の髪の、身分の高そうな人物が近づいてきました。
「見事な踊りでした」
王子はその人物に敬意を込めて軽く頷き、あひるに紹介してくれました。
「宰相のパルシファル。ふぁきあの父上だ」
「ふぁきあの・・・」思わず口を半分開けたまままじまじと凝視してしまったあひるに、パルシファルは、穏やかに包み込むような笑みを返しました。
「あれは失礼を致しませんでしたか?」
「あっ、はい、いえ、えっと・・・」あひるの頭にふぁきあとの様々な思い出が突然怒涛の如く甦り、あひるは混乱しながら、適当な返事を探しました。
「とても・・・良く世話していただきました」
「彼女が無事に到着できたのもふぁきあのおかげだ。感謝しているよ」王子の言葉にパルシファルは頭を下げました。
「なんの、王子に尽くすのがあれの務め。私が言うのもなんですが、あれには見所が有ると思っているのですよ。今後も必ず王子のお役に立つことでしょう」
目尻に皺を寄せて嬉しそうにふぁきあのことを話すパルシファルを、あひるはじっと見つめました。
(優しそうな人・・・それにふぁきあを可愛がってくれてるみたい。いいお義父さんで良かったね、ふぁきあ・・・)
あひるが考えていると、重臣らしき人が厳しい表情で近寄ってきて王子を呼びました。
「申し訳ありませんが、火急の用件です。宰相も御一緒に」
その人に一瞬睨まれた様な気がしてあひるは怯みました。
「そう。じゃあ・・・」
王子は周囲を見渡し、窓辺に立って裏庭の方を見ていたあおとあに目を留めました。
「あおとあ。しばらくチュチュの相手をしていてくれるかい?」
あおとあが承諾の印に深くお辞儀をするのを見て、王子はあひるに微笑みかけてから、重臣達と広間から出て行きました。ちらと今一度窓の外に目をやってから奇妙に真剣な表情で近寄ってきたあおとあに、あひるはおずおずと話しかけました。
「えーっと・・・あおとあさん、踊ります?」
「踊れなくはないが・・・」そう言いさして、あおとあは誰も二人に取り立てて注意を払っていないことを確認してから言葉を続けました。
「話がある。ちょっとこっちへ」
そして、入口と反対の側にある扉から、小さ目の篝火が焚かれたベランダへとあひるを誘い出しました。
「まったく、君らはどうかしている・・・いや、どうかしているのは、僕か」
「え?何?」あおとあが何かぶつぶつと呟いたのであひるは訊き返しましたが、あおとあは返事せず、持ち上げていた仕切りの幕を下ろしてからあひるに向き直りました。
「君は一週間よく頑張ったからな。これは君への特別な御褒美だ。そこの階段から降りて裏庭の方へ行ってみたまえ」
「?。うん」あひるはよく分からないまま、ベランダから裏庭へ下る階段を降りかけました。
「・・・君は不思議な人だな」
背中にかけられた言葉にあひるは振り返りました。
「誰もが君の幸せを願わずにはいられない・・・」
怪訝な表情で口を開きかけたあひるに、あおとあは追い払うように手を振りました。あひるはそのまま口を閉じ、ちょっと首を傾げてから、素直に階段を降りて行きました。
ふぁきあは、戻って近衛の騎士としての役目を果たさなければならないという責任感と、王子妃としてのあひるを見たくないという本音との板挟みで、さっきから裏庭を行ったり来たりしていました。手の届かないあひるの傍にいるのが辛いことは始めから分かっていましたし、警護の任を放り出すつもりなどありませんでした。けれど、広間であひると目が合った瞬間、ふぁきあは心臓が止まりそうな衝撃を受け、自制心も吹き飛んでしまいました。物問いたげな目でふぁきあを見つめていたあひるはあまりに魅惑的で、ふぁきあは我を忘れてあひるを抱き寄せそうな危険を感じ、つい逃げ出してしまったのでした。
(だが、あの輝きは、俺のためじゃない。全て王子のためだ)
そう思ったところで気持ちが鎮まるはずもなく、ますます胸が辛く軋むだけでした。二人を見守る覚悟を決めて戻ってきたはずなのに、広間から聞こえてくる音楽に、手を取り合って踊る二人の姿を想像させられるだけで、戻ろうとするふぁきあの足は止まってしまうのでした。二人の愛が清らかで曇り無く輝いて見えるのにひきかえ、自分の想いは邪で穢れていると感じて、ふぁきあはいたたまれず、また逃げるように建物から離れました。曲が変わったのに気づき、まだ王子と踊っているのだろうかと考えたふぁきあは、ふと胸にざわりと触る嫌なものを感じました。
(・・・他の奴とも踊るのか?)
途端に動悸が早くなり、黒い血が体中に広がっていくような気がしました。今夜、いったい何人の男があひるの手を取り、あの小さな手にキスするのだろうと考えてしまったふぁきあは、かっとして目の前にあった細い木の枝を、それがあひるの手であるかのように掴んで引き寄せ、折ってしまいました。
(王子ならいい。だが他の男はダメだ!)
それが独占欲だという事をふぁきあは認めようとしませんでした。あひるの愛が自分のものでない以上、それを独り占めしたいなどと考えるのは意味がないことのはずでした。
(王子の、妃なんだから・・・)
王子妃だからこそ有り得ることだったのですが、あひるに他の男が触れると考えただけで、常識的な判断など跡形も無く消し飛んでしまいました。王子ならおそらくそれを嫌がるどころか、あひるが多くの人に愛されるのを喜ぶだろうということは想像できましたが、ふぁきあの暗い怒りは止まりませんでした。
(今、この間にも・・・)
不安と苛立ちを募らせたふぁきあは、不意に、王子の度し難い従兄弟があひるに言い寄ったという話を思い出し、自分の中で何かがぶつっと切れる音を聞きました。
(二人を守りたいだけだ)
踵を返して建物に戻りながら誰にともなく言い訳した時、ベランダの階段を降りてきた人影がきょろきょろと辺りを見回しながらこちらに向かってくるのが目に入り、ふぁきあの心臓は一瞬止まりました。
「あひる?こんなところで何やってる」
「あっ、ふぁきあ!ここにいたんだ」憮然とした表情を装って尋ねたふぁきあでしたが、あひるが嬉しそうに顔を輝かせて走り寄って来ると、鼓動はいっそう高まり、あひるに聞こえるのではないかと心配になりました。しかしあひるはふぁきあの葛藤に気づく様子も無く、屈託のない笑顔でふぁきあを見上げました。
「御褒美ってこれだったんだね!」
「は?」
「あおとあさんが、あたしが頑張ってたから御褒美だって」省略が多くて分かりづらいあひるの話に慣れてしまったふぁきあは、特に困惑もせずに訊き返しました。
「・・・何のことだ?なぜ王子と一緒にいない」
「王子はどこかに呼ばれて行っちゃったの。それであおとあさんが相手してくれることになったんだけど、御褒美があるから裏庭に行ってみろって」ふぁきあは思わずベランダを見上げましたが、そこにはもう人影はありませんでした。
「あおとあさん、あたしがふぁきあと踊りたがってるって、どうして分かったのかな?」
ふぁきあは答えられず、ただじっとあひるを見つめました。ふぁきあが黙ってしまったので、あひるは困ったように見つめ返していましたが、新しい曲が始まると遠慮がちに口を開きました。
「踊って・・・くれる?」
「・・・一曲だけだぞ」
「うん!」ふぁきあはためらいながらも自分の気持ちに抗うことができず、あひるの手を取りました。
月はまだ昇っておらず、裏庭を照らすのは僅かな星の光だけでした。広間の灯火も間接的にしか届かぬ場所で、二人の姿は幻のように薄闇の中に揺れていました。ふぁきあの手に支えられて踊りながら、さっきの違和感が嘘のように、あひるの心は躍る喜びに満ちて輝いていました。それは以前一緒に踊った時と同じような、あるいはもっと心の深いところから湧き出してくるような、不思議な気持ちでした。ふぁきあもまた、あの時のことを思い出しているようでした。
「それつけてると、踊りも上手くなるんだな」
あひるの胸で輝いている赤いペンダントを見ながら、ふぁきあはいたずらっぽく笑いました。
「あっ、ひどい。あの時そんなにひどかった?」
あひるは抗議しましたが、むしろふぁきあの笑顔に幸せな気持ちでした。
「別に俺はどっちでも構わねぇよ」
「それ、ふぁきあが上手だからってこと?」
「・・・バカ・・・」夢のような時間は飛ぶように過ぎてしまいました。曲が終わり、あひるは名残惜しい気持ちで手を引きました。するりと抜けるかと思われた手は、しかし、ふぁきあの手に強く握られ、離れることはありませんでした。
「ふぁきあ?」
あひるが不思議そうに見上げると、ふぁきあは一瞬言葉に詰まり、それからどうにかという様子で言葉を絞り出しました。
「・・・もう一曲だけ・・・今度は俺の分を・・・踊ってくれるか?」
「うん!」こぼれそうな笑顔で頷いたあひるとは対照的に、ふぁきあはにこりともせず再びあひるの手を引きました。ふぁきあから誘ってくれたのが嬉しくて、あひるの心は舞い上がっていましたが、そのふぁきあがずっと黙り込んだまま踊り続けているのに気づき、ちょっと首を傾げました。どこか沈んだ表情に見えるふぁきあの気持ちを引き立てようと、あひるは明るい声で話しかけました。
「ふぁきあと踊ってると、あたし、すごく幸せな気持ちになるよ」
ふっと揺れた緑の瞳を覗き込み、そっと微笑みかけました。
「ずっとふぁきあと踊ってたいな・・・」
ふぁきあの手が微かに震え、あひるの手を掴む力が強くなったのを感じました。
「あひる、俺は・・・」
突然音楽が止まり、人々のざわめきが伝わってきました。ふぁきあは動きを止めたままあひるを見つめていましたが、ふいっと顔を逸らして広間を見上げました。
「なに?」
あひるはふぁきあの横顔を見上げて尋ねましたが、ふぁきあは黙って広間の明かりを見つめるだけでした。仕方なくあひるは言いました。
「戻ってみる?」
「・・・そうだな」あひるを振り返ることなく、ふぁきあは答えました。
二人が一緒に戻って行く事にふぁきあは躊躇しましたが、かと言ってあひるを一人で置いていくわけにも行きませんでした。ふぁきあはあひるの手を離し、自分の前を歩くように促しました。しかし二人が階段を上り始めようとした時、上からあんぬとまりいが駆け下りてきました。
「チュチュ様!今すぐお部屋へお戻り下さい」
「えっ?なんで?」あんぬ達の後に続いて降りてきたあおとあに、ふぁきあは尋ねるような視線を向けました。
「シディニアと隣のオストラントとの間に同盟が結ばれ、シディニア国内にオストラントの兵が集結しているらしい」
ふぁきあの驚いた表情を見て、あおとあは頷きました。
「あまり評判の芳しくないオストラントと手を組むとは、シディニアも思い切ったものだ。停戦は事実上破棄されたと見るべきだろうな」
よく事情が飲み込めていなさそうなあひるを、あんぬとまりいが両脇から抱えるようにして連れて行こうとしていました。「とにかく今夜はもうプリンセス・チュチュを部屋に帰すようにと、王子から御指示を受けた。それから、不測の事態に備えて、君がプリンセスを警護するようにと」
「・・・分かった」ふぁきあは眉をひそめたまま短く答え、あひる達を促しました。五人は回廊を避け、庭を廻ってあひるの部屋へ向かいました。あひるはいつも以上におぼつかない足取りで、ふぁきあはすぐ後ろを歩きながらそれを険しい顔で見ていましたが、あひるが何もないところで転びかけると、素早く腰に腕を回して抱きとめ、そのまま掬い上げるように腕に抱え上げました。あおとあは眉をひそめましたが、咎め立てはしませんでした。
ふぁきあはあひるを抱えたまま寝室の中まで運び、ベッドに下ろすと、すぐに身を離しました。あひるが縋るように伸ばしてきた手を一度強く握り、大きな瞳を避けるように顔を逸らすと、真っ直ぐ前だけを見て足早に部屋から出ました。間もなく侍女達に指示を与えていたあおとあも出てきて、戸脇で警護に立っていたふぁきあにちらりと一瞥を寄越しました。
「では、僕は王子のところに戻る」
「ああ」立ち去りかけたあおとあに、ふぁきあが後ろから声をかけました。
「あおとあ・・・ありがとう」
あおとあは振り返り、細い眉を上げました。
「どのことについて?」
「さっき・・・俺が裏庭・・・」あおとあがさっと手を振って遮りました。
「プリンセスへの御褒美のことなら、あれは僕が彼女に贈ったものなのだから、君にお礼を言われる筋合いじゃない」
いつもの皮肉な口調でそう言って、あおとあは行ってしまいました。