決められた運命 〜Symphonie Nr. 3 : Poco Allegretto〜
 
舞踏会の翌朝、ひんやりと少し湿り気を帯びた空気が心地良く辺りを包み、小鳥達はいつもと同じように楽しげに囀っていました。あひるの寝室がある一角の入り口で剣の柄に両手をかけて立っていたふぁきあは、穏やかな足音の方へ顔を振り向けました。やがて、よく見知った、少し年上の騎士が姿を現し、柔らかな調子で告げました。

「会議が招集された。お前も出ろってさ。警護を代わるよ」

ふぁきあは後ろの扉を振り返って見つめました。

「ふぁきあ?」
「・・・なんでもない」

床に目を落として呟いたふぁきあを気遣わしげに見て、ふぁきあの義姉の婚約者であるその騎士は言いました。

「寝てないんだろう?会議が終わったら少し休むといい」
「ありがとうハインリヒ。・・・でも大丈夫だ。しばらく頼む」

顔を上げてわずかに微笑んだふぁきあは、その騎士に後を託し、会議の行われる部屋へと向かいました。
 
 
 

会議の冒頭、王子が結婚式を早めたいと告げると、大きな円卓を囲んだ群臣から一斉に驚きと疑問の声が上がりました。あおとあは隣に座っているふぁきあをちらりと見ましたが、ふぁきあは顔色一つ変えていませんでした。

「これから開戦というのに、何故、今さらシディニアの姫を王子の妃にしなければならないのです」
「全くだ。あのような者、人質としての利用価値も無い。見せしめに処刑してもよいのでは?」

膝の上で拳を握り締めてぐっと耐えたふぁきあに内心感心しつつ、あおとあは王子が落ち着いた声で答えるのを聞きました。

「彼女は和平のために進んで身を捧げ、ここに来た。そんな気高い心を持った人を処刑などできるだろうか」

宰相のパルシファルが、穏やかに執り成しました。

「処刑云々はおくとしても、婚儀は中止または延期すべきなのではありませんか、王子」

しかし王子は隣のパルシファルと、それからぐるりと取り巻く群臣を一人一人真っ直ぐに見返しながら言いました。

「僕は和平に対するノルドの姿勢が変わらないことを示したい。二国間の関係がこのままでいいわけはないんだ。この婚儀は、もちろん一時的にシディニアの敵意を鈍らせる意味もあるけれど、それだけではなくて、この状況を根本的に変えるきっかけにもできるだろう。双方に利益をもたらすような共存の道を開くための」
「俺は王子に賛成する」

会議でほとんど発言したことの無かった、宰相の息子が口を開きました。

「まだ攻撃は開始されてはいないし、シディニアがプリンセスを切り捨てたと決まったわけでもない。こちらが先に浮き足立ったところを見せると不利になる。その上、オストラントが介入してくるとなれば、武力衝突はこちらにも被害が大きい。まずは正確な情報を得て、適切な方策を講じること、それから・・・外交での解決を試みることだ。戦わずに勝てるなら、それに越したことは無い」

ふぁきあが発言したこと自体も驚きでしたが、その内容が好戦派とみなされていたふぁきあからは考えられないものだったので、ざわめきが上がりました。あの彼が、今は戦わない方が良いと言うなら、よほど慎重を期すべき状況なのに違いない。そう誰もが思い込みました。ふぁきあの言葉はその場の空気を明らかに変えました。

「そうだ、先走って処刑したりすれば相手の思う壺であろう」
「姫の命は切り札になるやもしれぬしな」
「妃にしておけば目が届きやすいというわけか」
「そうだな、我々の手の内に有った方が、何かと都合が良いだろう。いざという時はいかようにも処遇できるのだし」

他の臣下も呼応し、それ以上反対の声は上がりませんでした。

「決まりだね」

王子は微笑みました。

「それでは、全体の戦略を討議しつつ、それと照応させて、婚儀の件の詳細を詰めましょう」

パルシファルが円卓を見回し、一瞬息子に目を止めましたが、それに気づいたのはあおとあだけのようでした。
 
 
 

会議が終わって人々が去っていく中、立ち上がって出て行こうとするふぁきあに王子が近づきました。

「ありがとう」
「何が?」

怪訝そうに答えるふぁきあに王子は微笑みました。

「ふぁきあなら分かってくれると思ってたよ」
「・・・王子・・・」

ふぁきあは、王子の信頼に、罪悪感で胸が痛みました。王子の妃に邪な恋心を抱き、あまつさえ我が物にしようとしたことすらある自分は、その信頼を受けるに値しないと思われました。王子の意見に賛成したのも、さっき口にしたような理由だけからではありませんでした。あひると知り合って以来、考えが変わってきたのは事実でしたが、それ以上にふぁきあを動かしていたのは、別の、言葉にできない想いでした。けれど王子の絶対的な信頼を目の当たりにして、ふぁきあはそれに応えたいと改めて思いました。

「俺は、この身を賭してお前を・・・この国を守る」

王子は何も言わず、微笑を浮かべたまま片手で軽くふぁきあの肩を叩くと、そのまま立ち去りかけましたが、扉の手前でふと振り返りました。

「昨夜はご苦労だったね」

ふぁきあは微かにぴくりと身を震わせました。

「僕がチュチュと一緒にいてあげられれば良かったんだけど」

顔が強張るのを感じながら、ふぁきあは答えました。

「・・・いや、別に構わない。お前も忙しかったんだろ」

王子は暗に肯定する時の微笑を見せました。

「チュチュの身ももう安全だと思うから、護衛は外していいよ」
「ああ。ハインリヒにもそう伝える」

ふぁきあは努めていつもどおりに、必要最低限の返事を返しました。王子が去るのを見送った後、ふぁきあは自分も部屋を出て、北の館の方へと歩き出しました。一部始終を見ていたあおとあはふぁきあの後を追い、ひと気の無くなったところで呼び止めました。

「ふぁきあ。いいのか?」

ふぁきあはゆっくり振り返ってあおとあを見ました。黙ったまま動かないふぁきあに、あおとあは重ねて尋ねました。

「本気でこの婚儀を進めるべきだと考えてるのか?」
「あいつを守るにはこうするしかない」

その声のあまりの静かさに、あおとあは何故か不安のようなものを感じました。

「しかし君は・・・」
「俺にとってあいつは光だ。暗闇を照らし、夜明けを導く、強く柔らかな光・・・だからあの輝きが消えなければ、俺はそれでいい」

きっぱりと言い切って去っていく後姿を見ながら、あおとあはしばらく考えていましたが、やがて踵を返して王子の部屋へと向かいました。
 
 
 

あひるの部屋に向かったふぁきあと入れ違いに、あひるは王子の部屋に向かっていました。ずっと扉の外に感じていたふぁきあの気配はしばらく前に消え、今は代わりに来てくれたらしい別の騎士に付き添われていました。その人は優しく誠実そうではありましたが、不安な気持ちを抱えた今は、ふぁきあが一緒だったらと思わずにいられませんでした。

(だいじょうぶ、ふぁきあは傍にいてくれる・・・)

昨夜、何か怖ろしい夢を見た時も、すぐにふぁきあが来て、ずっとあひるの手を握って悪夢を追い払ってくれました。もっとも目覚めた時にはふぁきあの姿は無かったので、それもまた夢だったのかもしれませんが。それでも扉の外のふぁきあの気配はあひるを心強くし、遠ざかってからもその温もりが余韻のように残って、あひるの心を包んでくれていました。

(あたしは、あたしにできる事をしよう)

あひるは、自分の処遇がどうなるにせよ、もう結婚は無いものと思っていました。あひるはむしろほっとした気持ちでした―それがなぜなのか、あひるには分かりませんでしたが。自分に課せられた使命を果たせなくなったのは残念でしたが、運命を受け入れる覚悟はできていました。

(今、あたしがやらなきゃならないのは・・・あんぬやまりい達を助けること)

自分に万一のことがあった場合、シディニアから供をしてきた人々のことだけが気がかりでした。あひるは、彼らだけでも無事に帰してもらえるように、王子に頼もうと思っていました。

(どこにいるの、ふぁきあ)

守ると言ってくれたふぁきあの―ずっと傍にいると約束してくれたふぁきあの―気配に励まされて心を決めたあひるでしたが、王子の部屋に近づくにつれて一歩ずつ不安が大きくなり、逃げ出したくなるのを必死に堪えていました。考えてもみなかった状況に立たされた今、あひるが頼れるのはふぁきあだけでした。ふぁきあも敵国の騎士には違いなかったのですが、何故かあひるは、ふぁきあだけはずっと味方でいてくれるような気がしていました。あひるは今さらのように、自分がどれ程ふぁきあに頼っているかを思い知らされました。
 
 
 

中庭に面した窓から明るい光が射し込む王子の執務室の中へと案内され、あひるが入っていくと、大きな机の向こうに立って何事か相談していたらしい王子とあおとあが振り向きました。王子はいつもの穏やかな笑みを浮かべて机を回ってあひるに歩み寄り、あおとあは難しい顔のまま、彼らに背を向けて窓際へと歩み寄りました。

「ちょうど良かった、プリンセス・チュチュ。今、君に話しに行こうと思ってたところだよ」
「えっ?」

あひるを待っていたのは、予想外の展開でした。王子がそっとあひるの手を取り、子供に優しく言い聞かせるような口調で告げました。

「都合で予定より結婚式を早めることにした。十日後に」
「・・・えっと・・・十日後?」

言われたことに頭が追いつかず口ごもるあひるを、あおとあが横目で探るような眼差しで見ていました。王子はあひるを安心させるように微笑みながら語りかけました。

「支度が少し慌しくなると思うけど、間に合うはずだから」
「あ・・・はい。分かりました・・・」

他に答える言葉も無く、あひるは頷きました。
 
 
 

(十日後・・・うん、別に、ちょっと予定が早くなっただけなんだから、何も問題ないよね。問題ないわけで・・・)

何が引っ掛かっているのか分からないまま、あひるはぼうっと考えていました。王子の部屋を後にしたあひるは、護衛に来てくれていた親切そうな騎士が付いていてくれるというのを断り、一人で中庭の噴水の縁に座っていました。そこに突然、横から声が掛けられました。

「プリンセス・チュチュ」
「あ、あおとあさん・・・」

あおとあは細い眉根を寄せ、厳しい表情でいつもより近くまで来ると、声を低くして訊いてきました。

「ちゃんと考えたのか?君にとって一番大事なことは何なのか」
「へ?」

あひるはきょとんとあおとあを見上げました。

「分かった上でそうするというなら止めないが、僕には、君が自分の気持ちをごまかしているように見える」
「ええと・・・何の話ですか、あおとあさん?」

顔を顰めたあひるを無視して、あおとあは周囲を注意深く見回しました。

「あの・・・」

しびれを切らしたあひるが口を開きかけた途端、あおとあはさっとあひるに向き直り、少し身を屈めると、一段と声を落として厳かに尋ねました。

「君は、ふぁきあが好きなのか?」
「うん?好きだけど?」

何を当たり前のことを、といった顔で答えるあひるに、あおとあはいらいらした様子で訊き直しました。

「そうではなくて、男として愛しているのかと訊いている」

あひるはかっと赤くなり、しどろもどろになりつつ答えました。

「えっ、べべべ別に、あたしとふぁきあはそんなんじゃなくて・・・」
「そうかい?」

冷ややかにあひるを一瞥し、あおとあは再び身を起こすと、腕を組んで溜息をつきました。

「君の周りの人は、君を甘やかしすぎるようだな」

(特にふぁきあだが・・・)

心の中で付け加えて、あおとあはあひるに目を戻しました。

「辛くてもちゃんと本当のことを知ったほうがいい。このままでは君は本当は自分がどうしたいのか、分からなくなるぞ」
「あ、あの、あおとあさん、いったい・・・」

あおとあが何を言わんとしているのか、あひるにはさっぱり分かりませんでした。まだ頬を赤く火照らせたまま、あひるは訊き返そうとしましたが、あおとあは無遠慮にそれを遮りました。

「ふぁきあは君の前で人を斬ったことは無いかもしれないが、あれでも優秀な騎士だ。君の国の兵士を、何人も殺してきた」

あひるはすうっと血の気が引くのを感じました。

「それは・・・」

それはあひるも考えないことではありませんでした。けれど、自分の国の兵士がふぁきあの両親を殺したことを考えると、ふぁきあばかりを責められないという気がしていました。

「・・・そうかもしれないけど・・・」
「そして、君の父上に止めを刺したのも、ふぁきあだ」

無無機的に付け足されたあおとあの言葉に、あひるは殴られたような衝撃を受け、強く息を呑みました。そして数瞬の後、辛うじてそれを吐き出しつつ、声を搾り出しました。

「・・・う、そ・・・」
「本人に訊いてみるといい。ふぁきあはもちろん、自分が君の父上を殺したことを承知の上で君を守ってきた。君は、ふぁきあが親の敵だと知っても、ふぁきあを好きだと言えるのか?」

身動き一つできないあひるに、あおとあは無情に言い渡しました。

「目を逸らさずによく見ることだ。作り物でない、本当の自分の気持ちを」

あおとあはそれだけ言って立ち去りましたが、あひるはそれを見てはいませんでした。
 
 
 

それからその日一日どう過ごしたのか、あひるには記憶がありませんでした。夜中に部屋の前の林に彷徨い出てきたのも、無意識のうちでした。星一つ無い暗闇の中、怪しい空模様にも気づかす、あひるはただふらふらと歩き続けていました。憎しみという感情はあひるには馴染みがなく、それが憎しみであるのかどうかすら、よく分かりませんでした。父親の死は今でも深い悲しみではありましたが、それが憎しみになることはこれまでありませんでした。おそらくは、あひるの父親が遠い場所で亡くなり、帰ってこなかったという事実だけが目の前にあって、父親を殺した敵という具体的な対象が見えなかったために。それが突然あひるの前に現れたのでした―最も信頼していた人の形をとって。

(・・・嘘・・・きっと嘘だよ・・・)

自分を言いくるめようとしたあひるの意図に反し、頭の中にふぁきあの言葉が冷酷に響きました。

『あいつは・・・嘘はつかない』

(嘘だよ!こんなの、何もかも、全部嘘だもん!!)

あひるは頭を抱えてしゃがみ込みました。
 
 
 

ふらふらと夢遊病のように歩き回っていたあひるが、突然、唐檜と楡の林に1本だけ混じった樫の木の根元に崩れるように座り込んだのを見て、ふぁきあはためらいながらもあひるに歩み寄りました。中庭であひるを見つけて様子を見守っていたふぁきあは、あおとあがあひるに近づいていったのを見ていました。そうしてあひるがその後、人形のように噴水の傍に座ったままだったのも、侍女達が呼びに来ても動こうとしなかったのも、日が暮れてむりやり館に引きずって帰られたのも、ふぁきあはずっと見ていました。

曇り空の下、誰もいない中庭に座り続けていたあひるの様子はどう見ても尋常ではなく、ふぁきあの胸には、恐怖と言っていいほどの重い懸念が圧し掛かり、それが間違いであって欲しいという切実な願いと相克していました。怖れを抱えたまま、あひるに近づくこともできずに見守っていたふぁきあでしたが、今にも雨が降り出しそうな雲行きになっていて、このままあひるを放っておくわけにはいきませんでした。

「眠れないのか?」

びくっと震えて顔を上げたあひるの怯えた表情と、見覚えの無い感情を映して揺れる瞳に、ふぁきあは自分の懸念が杞憂でなかったのを知りました。ふぁきあはしばらく黙ってあひるを見つめ返していましたが、表情を変えることなく訊きました。

「・・・あおとあに聞いたのか?」
「嘘だって言って!」
「嘘じゃない」

過去を認める言葉は、意外にもすんなりと、迷うことなく出てきました。ふぁきあはむしろ、これで苦しみから解放されると、ほっとした気さえしていました。ずっと怖れ、拒んできた事態にも取り乱しもせずにいる自分を、不思議な気持ちで眺めました。まるで大きすぎる痛みに対して、心が切り離されたかのように、何も感じていませんでした。やっとの思いで手にしたささやかな希望が無残に打ち砕かれ、掌からこぼれ落ちていくのを、ふぁきあはただぼんやりと見ていました。全てが自分から失われたことをふぁきあは知りました―あひるの信頼も、かろうじてあひるの傍にいられる幸せも、何もかも。
 
 
 

あひるは打ちのめされていました。今や残酷な運命は疑いようのない事実となって、あひるの前に立ちはだかりました。

「どうして・・・?」

ふらりと立ち上がったあひるはよろめき、反射的に伸びたふぁきあの腕の中に倒れ込みました。そして力強い手にしっかりと腕を支えられたとたん、あひるはびくっと大きく震えて、その手を振り払いました。

「どうしてお父様を殺したの?どうして今まで黙ってたの?!」

激しい語調で詰問しましたが、どんな答えを望んでいるのか、あるいは答えて欲しいと思っているのかどうかも、よく分かりませんでした。

「信じてたのに!ずっと友達だと思ってたのに!!」

深い碧の服をぎゅっと掴んで縋りつき、広く硬い胸に向かってあひるは叫びました。

「どうして?!・・・どうしてふぁきあが・・・」

しかしいつもならあひるをしっかりと抱き締めてくれる腕は、操り手を失った人形のようにぴくりとも動きませんでした。いつもと違う状況、いつもと違う自分の心に、あひるは混乱していました。

(気持ち悪い・・・こんなのやだ・・・)

何も見えない真っ暗な闇に突き落とされ、あひるはもがき苦しんでいました。きつく目を瞑り、救いを求めてあえぐように深く息を吸い込んだその時、記憶の奥深くでちろりと小さな閃光が瞬きました。

『憎まないで』

はっとして、あひるは、溺れる者が命綱にしがみつくようにその言葉にしがみつきました。

『憎しみは幸せを遠ざける・・・』

(ふぁきあを・・・赦さなきゃ。憎しみを乗り越えるって決めたんだもん。あたしは、ふぁきあを赦さなくちゃいけない)

それは、誰であれ争いたくない、という、あひるの身についた習性のようなもので―あひる自身はそうとは覚えていませんでしたが―幼い頃に亡くした母が繰り返し話してくれた教えでした。

(何か答えてくれたら、それがどんな言い訳だったとしてもふぁきあを赦そう。ふぁきあがあたしとの絆を大切に思ってくれて、それを守ろうとしてくれるなら、憎しみにも目を瞑ろう。だから・・・お願い、何でもいいから)

「答えて!」

しかしふぁきあは、謝罪も弁解も何一つ口にしませんでした。ふぁきあの顔には何の表情も浮かんでおらず、こんな暗闇でなかったとしてもおそらく、あひるにはふぁきあの気持ちを読み取ることはできなかったろうと思われました。そしてやっとふぁきあの口から出てきたのは、あまりにも素気無い一言でした。

「俺を憎めばいい」
「・・・そんな・・・」

あひるとの繋がりを少しも惜しんでいないかのようなふぁきあの言葉に、あひるは愕然としてふぁきあの顔を見つめました。込み上げた涙がこぼれかけ、あひるは唇を引き結び、身を翻して駆け出しました。
 
 
 

「あひるっ!」

ふぁきあは林の奥に向かって走り出したあひるの腕をあっという間に捉えると、その体を乱暴に木の幹に押し付けました。あひるは両腕を押さえつけられながらも、きっ、と強い瞳でふぁきあを見上げましたが、ふぁきあはほんの一瞬たりとも怯むことはありませんでした。

「いいか、あひる、憎むなら俺だけを憎め。決して王子や他の人間に向けるな。お前は王子と結婚して、いずれはこの国の王妃になるんだ。絶対に、この国に対して含むところがあるような素振りを見せるんじゃない。それでなくてもお前の立場は危ういんだ。頼むから・・・」

(俺が守れるところにいてくれ・・・)

けれどもその想いを口にすることはできず、唇が紡いだのは全く違う言葉でした。

「この国の安定を乱すようなマネをするな」
「分かってるよっ、そんなこと!」

涙を溜めて睨み返すあひるを冷たく見下ろし、ふぁきあはゆっくりとあひるから手を離して、傲然と言い放ちました。

「ならいい。俺はなるべくお前の目につかないようにする。会わなければ憎しみをさらけ出すこともないだろう」
 
 
 

急に不安が兆し、あひるは震える声で尋ねました。

「・・・どこかへ行くの?」
「どこにも行かない。おれはここで王子とお前を守る。それが使命だからな」

それはあひるが望んでいた答えでしたが、その言い方はあまりに冷ややかで、あひるは嬉しいとは思えませんでした。

「とにかく、もう、部屋に戻れ」
「いや」
「あひる!」

厳しい声で叱責され、あひるは首をすくめましたが、ふぁきあを見つめたままその場を動こうとはしませんでした。睨み合っているうちに、とうとう細かな雨粒が落ちてきて、二人を濡らし始めました。ふぁきあはいきなりあひるの左手を掴んで強く引き、つんのめったあひるを肩に担ぎ上げました。

「やだ!放して!」
「静かにしろ。みんなを起こす気か」

低い声で鋭く言われて、あひるはぐっと言葉を飲み込みました。けれどその代わりのように涙が溢れ、雨と一緒に落ちました。
 
 
 

ふぁきあは背中を濡らしているのが雨だけではないことに気づいていましたが、何も言わず、小刻みに震えるあひるの細い体を肩の上でしっかりと抱えたまま、館の中へ運んでいきました。あひるの居室の前で、少し落ち着いてきたあひるをそっと降ろし、ふぁきあは最後に何か声をかけたいと思いましたが、何も思いつきませんでした。

「あひる・・・」

言葉にならない想いのままに名を呼び、手を伸ばしかけると、あひるがびくりと身をすくめ、ふぁきあはぐっと手を握り締めてそのまま引っ込めました。静かに扉を開けて無言で促すと、あひるは目を伏せてふぁきあの前をすり抜け、おとなしく部屋に入りました。ゆっくりと扉を閉じながら、ふぁきあは、あひるの後姿と一緒に、自分の想いをしっかりと閉じ込めました。そして取っ手に手を掛けたまま扉に頭を押しつけてもたれかかり、しばらく動きませんでしたが、やがて意を決して立ち去りました。

(何をやってるんだ、俺は・・・あいつの覚悟は知ってた筈なのに、わざわざあんなことを言ってあいつを苦しめるなんて・・・) (あの時、あいつを攫っていれば・・・全ては違っていたのか・・・?)

ふぁきあは旅の途中の船着場で一瞬迷ったことを思い出していました。あの時以来、あひるはふぁきあから離れていくばかりで、とうとうかけがえのない無垢な信頼まで失われてしまいました。そして運命の日は、十日後に迫っていました。


 
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