心の奥深く 〜Sanctuary of the Heart〜
 
(あれ?ここ・・・)

目を覚ましたあひるは、ぼんやりとまばたきして視界に入ってくるものを眺め、自分が知らない部屋のベッドに寝かされていることに気づきました。部屋をほんのりと照らし出している明かりの方を向こうと身じろぎした時、少し離れた場所から声がかけられました。

「起きたのか」

その人が近づいて覗き込んできたので、仰向けに寝ていたあひるにも顔が見えました。

「ふぁきあ」
「気分はどうだ?」
「うん、もういいみたい」

そう言ってあひるは勢い良く上半身を起こしましたが、頭がふらつき、再び吸い込まれるように後ろに倒れ掛かりました。

「バカ、無理するな」

慌てて両肩を掴んだふぁきあは、少し迷った後、あひるの背に手を回してゆっくりと抱き起こしてやり、片手であひるを支えたまま向かい合うようにベッドに腰掛けました。

「もう夜?」
「と言うより、もうすぐ朝だ」

(じゃあ、一晩中傍にいてくれたのかな・・・)

あひるがぼうっと考えていると、ふぁきあが遠慮がちに尋いてきました。

「飯、食えるか?昨日の朝、食事したきりだろ。何か食っといた方がいい・・・と言ってもたいしたものは無いが」
「え・・・ん、と・・・」

ふぁきあはそっとあひるの背から手を外して立ち上がり、ベッドから数歩分の距離に置かれた小さい簡素な扉付き棚に向かい、棚の上に置いてあった水差しから小さな器に水を注ぎました。それからその脇にあった包みを取り上げると、器と包みを持って戻ってきました。

「朝になったらもう少しマシなものを調達してやるから」

あひるの膝の上に置いた包みを片手で開きながら、ふぁきあは申し訳無さそうに言いました。それは携帯用らしいビスケットでした。

「うん。ありがと」

食欲はありませんでしたが、心配をかけてはいけないと思い、あひるは無理にビスケットを口に詰め込んで、乾いたビスケットを喉に詰まらせました。

「うぐっ」
「落ち着け」

ふぁきあが差し出した水の器を、ふぁきあの手ごと掴んで慌てて口に運び、どうにかビスケットを飲み下しました。そうして、ふぁきあに器を持たせたまま―両手でふぁきあの右手を包み込んだまま―あひるはその木彫りの器を珍しそうに眺めました。あひるは金属の食器しか見たことがなかったからでしたが、ふぁきあは顔を顰めて器を持った手を引っ込めました。立ち上がったふぁきあの動きにつられて辺りを見回し、あひるは尋ねました。

「ここは?」
「俺の生まれた家だ」
「ふぁきあの?」
「ああ」
「お家の人は?」
「・・・今はいない」

空になった器を棚の上に置きながら短く答え、ふぁきあは話を断ち切るように急に振り向きました。

「あおとあに連絡を出した」
「あ!そっか。早くみんなのところに戻らなきゃね。もう、すぐ出発する?」

ごそごそと起き出そうとするあひるを制止し、ふぁきあは、あひるの両肩を掴んだ強い手であひるをベッドに押し戻しました。

「いや、俺達は俺達だけで城に向かう。あおとあ達は陽動だ」
「おとり・・・ってこと?どうして?」
「また狙われるのを避けたい。他にもお前を狙ってる奴らがいるかもしれないし」

あひるの上にかがみ込んだままそう言った後、少し黙ってからぽつりと呟きました。

「・・・悪かったな・・・」
「えっ?何が?」
「俺のせいで怖い思いをさせて」

あひるは驚き、慌てて否定しました。

「えっ、そんなの、ふぁきあのせいじゃないし、それにふぁきあはあたしを助けに来てくれたし・・・」
「それでも俺は私的な理由で持ち場を離れた。騎士失格だ」

私的な理由ってなんだろう、とちらっと思いましたが、ふぁきあがひどく落ち込んでいるように見えて、とにかく慰めなくてはとあひるは言葉を重ねました。

「でもでもっ、ふぁきあのおかげで助かったんだから、やっぱりふぁきあは立派な騎士だよ」

一生懸命に説得しようとするあひるをふぁきあはじっと見ていましたが、ふとあひるの前髪をかき上げるように頭を撫で、静かに言いました。

「・・・もう少し寝ろ」
「うん」

撫でられた感触が心地良くて、あひるは目を閉じました。
 
 
 

再び目覚めた時、ふぁきあは近くにはいませんでした。ふと軽やかな音楽が聞こえたような気がしてあひるはゆっくり起き上がり、ベッド脇の、明るい光の差し込む開け放たれた窓に寄りました。ここはどうやら町外れの一軒家らしく、窓の外には小さな湖が見え、その向こうには黒い森が広がっていました。湖は青く透き通り、底に沈んだ倒木が幻想的に揺らめいていました。あひるは湖畔の木の下に誰かが座っているのに気づいて、何かに導かれるように窓から抜け出し、その人の少し手前で立ち止まって声をかけました。

「こんにちは」

人形のように白い顔を上げてその人は答えました。

「こんにちは」
「あの、あたし、あひるです。あなたは?」
「私はエデル」

奇妙な懐かしさを感じて、あひるは隣に膝を折って座り込みました。

「エデルさん。ここで何してるんですか?」
「うふふ・・・」

エデルは口先で小さく笑っただけで答えてはくれませんでした。そうして、かすかに微笑んでいるようにも見える顔をあひるに向けて、なんでもないことのように言いました。

「あひるは王子のところに行くのね」
「えっ、どうして知ってるの?」

あひるは身を乗り出しましたが、エデルの返事はまるで何かの歌の文句のようでした。

「彼は理想の王子。勇敢で心優しく、全ての人を愛し、全ての人から愛される真の王子。欠けるところの無い完全な幸せを持つ者。けれどまだ運命の姫君が現れていない」
「あたしが・・・そう?」

あひるの質問を聞いているのかいないのか、エデルは歌うように話し続けました。

「輝ける白き王子は大烏と闘う運命」

聞き覚えのない単語に引っ掛かって、あひるは尋き返しました。

「大烏?って?」
「大烏は古い伝説の魔物、人の心を蝕む絶望、世界を闇の中に眠らせる」

あひるの背筋がぞくっと震えました。あひるは恐る恐る尋ねました。

「でもそれ、ただの伝説・・・お話なんですよね?」
「お話は現実の中に、現実はお話の中に。合わせ鏡のようにお互いを映し、どこまでも続く世界」

あひるは首を傾げました。

「お話が本当になるってこと?」
「物語を紡ぐのは人の意志。それを現実にするちからも同じもの」
「それってどういう・・・」
「あひる?あひるっ?!」

突然、背後からあひるを探すふぁきあの焦った叫び声が聞こえ、あひるは慌てて中腰になって振り返り、声を張り上げました。

「ふぁきあ!あたし、ここ!」

小さな家からふぁきあが飛び出してきて辺りを見回し、すぐにあひるを見つけて凄い形相で近づいて来ました。

「・・・お前・・・!」
「ごめん、心配かけちゃった?今、エデルさんとお話してたの」
「エデル?」

ふぁきあは訝しげに眉をひそめました。

「うん、この・・・あれ?」
「どうした?」
「さっきまでここに・・・女の人がいたでしょ?」

あひるが指差した木の下に人影は無く、誰かが座っていた跡さえありませんでした。

「俺は見てないが・・・」

木の下からあひるへと視線を戻し、ふぁきあはあひるの前に膝を折りました。

「夢でも見たんじゃないか?まだ熱が・・・」

額に当てられたふぁきあの手を取って、あひるは抗議しました。

「そんなはずないよ、いっぱいお話したんだもん、王子様のこととか、大烏のこととか・・・」
「なにっ?!」
「あっ」

いきなりふぁきあの手が翻ってあひるの手首を掴み、引き寄せるように前に引っ張りました。

「大烏だと!何を話した」

険のある目で睨みつけられ、怯えて身をすくませながらもあひるは答えました。

「何って・・・王子様は大烏と闘う運命だ、って・・・」

手首を締め付ける力が、じり、と強まり、あひるは悲鳴を上げました。

「痛っ!痛いよ、離してふぁきあ」

それでもふぁきあはしばらくの間、震えながらあひるの細い手首を握り締めていましたが、やがてほうっと息を吐き、力を抜いてあひるを解放しました。

「・・・すまない・・・」
「うん・・・」

あひるがそっとさする手首がわずかに赤くなっているのをちらと申し訳なさそうに見やってから、ふぁきあは念を押すように尋ねました。

「知らない奴だったんだな?」
「うん、でも、なんか懐かしい感じがしたよ」
「懐かしい?シディニアで会ったことがあるのか?」
「ううん、もっと前っていうか、ずっと後っていうか・・・」
「なんだそれは」
「それが、あたしにもよく・・・」

あひるは曖昧に笑い、ふぁきあは溜息をつきました。

「何者かは分からないが、王子と大烏のことを知っていたなら油断はできない」
「でも、悪い人じゃなさそうだったよ」
「分かるものか」

吐き捨てるように言った後、ふぁきあは俯き、硬い声で呟きました。

「何があろうと、俺が王子を守る」
「守れるよ、ふぁきあならきっとね」

あまりにもはっきりと言い切られて、ふぁきあは呆気に取られてあひるの顔に目をやったまま言葉を失い、ややあって尋ねました。

「なんでそう思うんだ・・・」
「なんでってわけじゃないけど、なんとなく・・・ごめんね、そんな簡単なことじゃないんだよね、でもきっと大丈夫だよ」

あひるは、迷いの無い、明るい笑顔をふぁきあに向けました。

「そんな気がするの」

ふぁきあは再び溜息をつき、あひるの隣に腰を下ろしました。

「・・・お前はどうする」
「どうするって?」
「聞いたんだろう?この国は魔物に狙われている。シディニアに帰りたいか?」
「うーん、でも、これがあたしの運命だと思うから」

屈託の無いあひるの様子にふぁきあは呆れ、同時に、少し不思議な気持ちになりました。

「お前は怖くないのか?どんな危ない目に会うかも分からないのに、周りの言うなりに、敵国に嫁がされて・・・」
「違うよ」

あひるは即座に否定しました。

「あたしが自分で行くって言ったの。王様や、みんなが困ってたから。あたしが今まで幸せに暮らしてこれたのはみんなのお陰だもん。るうちゃんは女王になってシディニアを治めなきゃいけないし、あたしが出来るのはこれくらいだから。あたしはあたしに出来ることをやろうと思ったの」
「お前・・・」

ふぁきあは、ただ素直で世間知らずな頼りない姫だと思っていたあひるの言葉に驚き、あひるをまじまじと見つめました。

「お父様が亡くなってから・・・」

ふぁきあがかすかに身を硬くしましたが、あひるは気づかず話し続けました。

「なんだかあたし、厄介者っていうか、ううん、るうちゃんもみんなもすごく優しくしてくれたんだけど、それもなんか申し訳ないっていうか、だからあたしにもできることがあるんだって思ったら嬉しかったんだ。だからあたしが行って平和になって、それでみんなが喜んでくれるなら、どんな危ないところでもあたしは行く。そのためなら憎しみだって乗り越えられるよ、きっと」

ふぁきあは衝撃を受けていました。状況が異なるとはいえ、同じように両親を亡くしていながら、どうして自分とこうも違うのかと。敵を憎むことしかできなかった自分に対し、目の前の、見た目は自分よりずっと幼い少女は、己の悲しみより周りの人の幸せを考えていました。考え込んでいたふぁきあは、突然のあひるの質問に一瞬戸惑いました。

「え?」
「うん、だから、ふぁきあの御両親はどんな人かなって」
「・・・父は高潔な騎士で、政治においても有能な人だ。母は俺が引き取られる前に亡くなったそうだから、どんな人だったか知らない。美しい人だったらしいが」

あひるの怪訝そうな表情に気づき、ふぁきあは付け足しました。

「俺は養子だから。5歳の時に今の父に引き取られた」
「えっ、じゃあ本当の御両親は・・・」
「死んだ」

短く答えて黙ってしまったふぁきあの辛さが、自分の両親が死んだ時の悲しみと重なり、あひるの青い瞳が翳りを帯びて潤みました。

「・・・じゃあ、寂しかったね・・・」

あひるの涙に慌てたのと、自分の弱さを見せたくないという強がりで、ふぁきあは何気なく口にしてしまいました。

「戦争だからしょうがない」
「えっ、戦争って・・・」

ふぁきあはしまったと内心舌打ちしましたが、あひるは澄んだ双眸を大きく見開き、震えながらふぁきあを見つめていました。

「もしかして・・・あたしの国との戦争で?」
「珍しいことじゃない」

(なんでこいつにこんなこと話してるんだ?こいつはシディニアの人間なのに・・・)

あひるは俯き、ぽろぽろと涙をこぼしました。

「ごめんね・・・」
「バカ、お前のせいじゃないだろ」

あれほどシディニアの人間を憎んでいたのに、なぜあひるを庇うようなことを言ってしまうのか、自分でも不思議でした。

「でも・・・やっぱりあたしの国のせいでふぁきあは・・・お父様やお母様の思い出も・・・」
「お前のせいじゃない。・・・それに俺は・・・」

しかし、ふぁきあは自分がしたことを伝えるのをためらいました。ふぁきあにとって、自分に寄せられるあひるの信頼は大切なものになりつつあり、それを失うことを無意識に怖れたからでした。ふぁきあは話を逸らしました。

「数年前この町に戻って来た時、偶然この家を見つけた。時々、人に来て、手入れしてもらってる。両親の墓も近所の人が作ってくれていた。城からここまではそうそう来られないけどな」

そしてふと思いついて付け足しました。

「それに実の両親の思い出も全く無いわけじゃない。・・・いつのことかはよく分からないが、その日は母の誕生日で、俺は贈り物をしようと思いついて、一人で森に花を探しに行った。母に喜んでもらえるような一番きれいなのをと思って夢中になっていた俺は、探し続けているうちに、帰る方向が分からなくなってしまったのに気がついた」

訥々と語るふぁきあを、あひるは黙って、涙の残る瞳でじっと見ていました。

「家からそんなに離れてたわけじゃなかったんだが、まだ小さかったからだろうな、まるで遠く離れた知らない土地に来てしまったような気がした。不安で動けなくなった俺は、その場にしゃがみこんで、ただ両親を呼んだ。そこに俺を探す両親の声が聞こえてきた。俺は、泣きながら・・・走り出して・・・」

膝の上で組んだ手に冷たい滴が落ち、自分が泣いていることに気づいたふぁきあは、驚いて涙を止めようとしました。しかし両親を亡くしてから初めて流す涙は、それまで塞き止められていたものが一気に溢れ出したように、どうしても止められないのでした。ふいにふぁきあは、自分が柔らかく温かいものに包まれているのを感じました。あひるがふぁきあの頭を優しく引き寄せ、胸に抱いていました。あひるの薄い胸は、ふぁきあの記憶の底にある母の胸とは全く違っていましたが、同じように温もりと安らぎを与えてくれました。


 
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