願い 〜Romeo et Juliette : Scène d'amour〜
 
力強い、けれど意外に繊細な蹄の音は、確かに聞き覚えがある気がして、あひるははっと顔を上げました。朝霧の中、黒い影が風を切って近づいてきたかと思うと、少し距離のあるところで、あひるの姿を認めたらしく、強く手綱が引かれて急停止しました。まだ足踏みしている馬から飛び降り、手綱を掴んだまま驚いた顔で振り返る懐かしい人の姿に、胸がいっぱいになり、転がるようにその人の許へ駆け寄って、伸ばした手が、慣れた手触りの服を掴み・・・

いつもと同じようにそこで目が覚めて、あひるはしばしぼんやりと宙を見つめました。そしておもむろにベッドに上半身を起こすと、握り締めていたシーツを離してその手をまじまじと眺めました。

(やっぱり、夢か・・・)

両手が膝の上にぱたりと落ち、思わず溜息が洩れました。風邪でもひいたように胸が重く、ざらざらとした痛みすらあるようでした。あひるがこれまで慣れ親しんできた爽やかな目覚めは、ここに来てから―正確にはここに着く日の朝から、ずっと遠ざかっていました。
 
 
 

慣れないノルドの暮らしの中で、あひるは『良い妃』らしくしようと、最大限の努力をしていました。実際あひるにしてはとても上手くやっていると言えましたが、やはり習慣の違いもあり、小さな失敗を繰り返しては、あおとあに小言を言われていました。それでなくともここでの生活は、大勢の知らない人々に囲まれていつも緊張を強いられ、積極的で楽天的なあひるにとっても、本当はかなり負担になっていました。それでもあひるは周りに心配をかけまいと、気丈に振舞っていたのでした。しかし、あひるは今、珍しく弱気になっていました。

(・・・いてくれたらなぁ・・・)

その人がいたとしても、きっと毎日叱られることに変わりはなかったでしょうが、あおとあに叱られるより、その人に叱られる方がいいような気がしました。
 
 

昨日は、延び延びになっていた王と王妃への面会が―王の健康状態が優れないというのがその理由でしたが、敵国の姫に対して何がしかの屈託が有ることは、誰しもが言葉にはしないものの承知していました―到着五日目にしてやっと実現しました。あひるは姫君らしく優雅な物腰で丁寧に挨拶し、何も不都合なことは起こさなかったはずでした。けれど王と王妃は、顔に笑みを浮かべてはいたもののどこか冷たく、あひるを拒絶しているように感じられました。あひるは何が悪かったのか分からず戸惑いましたが、優しい王子は何も言わず、あおとあは無視を決め込んでいました。もし、彼がいたら・・・

(どうしてなのか教えてくれたかもしれないし、そもそもあたしがそんな失敗しでかさないように注意してくれたよね。あたしのこと、バカ、バカってけなすけど、本当はすごく面倒見のいい人だもん。・・・それに傍にいてくれるだけで心が落ち着いて、どんな難しいことでもできるような気がする。失敗しても、また頑張ろう、って思える。・・・ふぁきあが戻ってきたら、もう一度お願いしてみよう。あたしの傍にいてくれるように)

前向きになりかけた心に、ふと不安が掠めました。

(戻って・・・くるよね・・・)

ふぁきあが王子の騎士である以上、このままどこかに行ってしまうなんてことは絶対に無いはず―そう、自分に言い聞かせたあひるは、あおとあが王子に話していた言葉を思い出しました。

『・・・全て視て周るとしたら半月ほど、もし何か問題があれば、それ以上かかるでしょう』
 
 

「半月・・・」

あひるはぽつりと呟きました。それは今のあひるには、ずっと先、というのと等しい響きでした。残りの日数を数える気にもならず、あひるはうなだれました。

「何がです?」

突然すぐ近くで声がして、あひるは顔を上げました。

「あ・・・おはよ、あんぬ、まりい」

反射的に言ったあひるの髪を梳かしながら、あんぬが答えました。

「チュチュ様ってば、朝の挨拶はさっきしましたよ、とっくに」
「まだ寝呆けてらっしゃるのね。カワイイわぁ」

着替えを運んできたまりいが嬉しそうに笑いました。あんぬはまりいを見て呆れ顔で首を振り、脇の化粧台にブラシを置くと、あひるに向き直って長い髪を三つ編みに結い始めました。

「でもどうしたんです?ぼーっとしちゃって。このところ変ですよ」
「あらぁ、変なのは前からじゃない?」
「前以上によ」
「そう言えばそうね」

いつものように二人の口も手も止まることはなく、てきぱきとあひるの身支度を整えていきました。あひるは決まり悪げにもぞもぞと居住まいを正してごまかしました。

「そ、そう?・・・なんでもないよ、大丈夫」
「やっぱり緊張してよく眠れないとか?」
「それとも昨日の失敗で落ち込んでるとか」

何やら楽しそうにまりいに言われ、がっくりうなだれたあひるの背中を、あんぬが叩いて励ましました。

「国王様と王妃様のことなら、気にすることないですって。舅や姑と折り合いが悪いなんてのはよくあることなんですから」
「そうそう、チュチュ様が変なのは治りっこないんですもの、このまま極めて歴史に名を残すのはどうです?きっと王様達にも見直されるわね」
「んなわけないでしょ」

あひるはなんとか笑い声らしきものをたてました。

「・・・ほんとに大丈夫だから。心配しないで」

親友とはいえ、むやみに彼らを煩わせたくはありませんでしたし、何より、何をどう説明すればいいのか、あひるにもよく分からなかったのでした。
 
 
 
 
 

「またか!!最初は小鳥で、次がリス、そして今度は野良猫。この後はなんだ?馬か?」

あおとあは早足であひるの部屋に入って来るやいなや、あひる達が慌てて隠そうとした毛むくじゃらの塊を見咎め、イライラとした声を上げました。

「何度も言わせるな。部屋に動物を連れ込むんじゃない!」

あひるは、紫がかった灰色の毛並みの猫を胸に抱き直しながら、口を尖らせて反論を試みました。

「だって怪我してたし・・・」
「君が関わる必要はないことだ。どうしても構いたければ、他の場所で、他の者にさせるがいい。王子妃の部屋でやることではない。付き合わされる侍女達の身にもなってみろ」

もっともな叱責にあひるは言い籠められて小さくなりました。

「うぅ・・・ごめんなさい・・・」
「あおとあ様、私達は平気ですよ。むしろ楽しんでますから」
「そうですとも、チュチュ様はこの常識知らずなところがカワイイんじゃないですかぁ」

口々にかしましくあひるを庇う侍女達の剣幕に圧され、あおとあはたじたじとして口を噤みました。あんぬがあひるの腕から猫を抱き取りながらあおとあに尋ねました。

「それよりあおとあ様、何か御用があったんじゃ?」

言われてあおとあは、ここに来た本来の目的を思い出しました。

「ああ」

軽く咳払いをして威儀を正してから、あおとあは続けました。

「御披露目の舞踏会の日取りが決まった。君を正式に王子妃として紹介する、大切な行事だ」

何故か胸がずきりと痛み、あひるは、あれっ?と思いました。

(嬉しいはずなのに・・・なんで?)

「くれぐれも振る舞いには気をつけてくれ。君はもうシディニアの王女ではなく、ノルドの王子妃という扱いなのだからな。そういう意識でいてもらわなければ困る」

責任の重圧以外の何かがあひるの胸を締め付けました。あひるの顔を注視していたあおとあが不意に尋ねました。

「どうした?」
「えっ?何が?」

あひるがぽかんとして尋ね返すと、あおとあは首を横に振って、視線を逸らしました。

「・・・いや、別に。今の君に訊いたところで、答えは得られまい」

その時、次の間に控えていた侍女が王子の来訪を告げ、間を置かずに王子が優雅な姿を現しました。

「チュチュ」
「王子」

あひるはぱっと顔をほころばせて王子に笑いかけました。あおとあは近づいてくる王子に向かって頭を下げ、侍女達は膝を深く曲げてお辞儀しました。王子は彼らに軽く頷いて言いました。

「チュチュと少し話があるんだけど」
「では、我々はこれで」

あおとあは答え、侍女達を促して立ち去りました。彼らが部屋を出るのを見届けてから王子はあひるに向き直り、優しく微笑みながら尋ねました。

「ここはどう?もう慣れた?」
「はい!みんなとっても親切で、それにあおとあさんも色々教えてくれますし」

本当は必ずしも全員が好意的なばかりではなく、気がかりもありましたが、そのことは黙っていました。そして、大切な何かが欠けているような、不安を感じていることも。

「そう、良かった」

王子は心から喜んでいる様子で笑顔を見せ、それから急に真面目な面持ちになりました。

「チュチュ。実は君に、頼みたいことがある」

王子の声音に普段と違うものを感じたあひるは、少し緊張して両手を前で重ね、愛らしく首を傾げました。

「何・・・えっと・・・なんでしょう?」
「僕を助けて、チュチュ」
「えっ?」
「僕の心を、君に託したい」

戸惑うあひるに近づいて片方の手を取り、王子は自分の手でそっと包み込みました。

「僕の役割はすべての人々を守ること・・・そのために犠牲を払う覚悟は出来ている。けれども僕が立ち向かわなければならない問題の中にはとても困難なものもあって、必ずしも僕がそれに打ち勝てるかどうか分からない。僕はいつか・・・心を失ってしまうかもしれない」

いったん言葉を切り、王子はあひるの手をぎゅっと握り締めました。

「だが、僕は、あきらめたくない。そして僕がその運命と闘うには、君達の助けが必要なんだ。君と、ふぁきあの」

(あたしと・・・ふぁきあの?)

思わず窺うように王子の琥珀の瞳を覗き込むと、王子は決然とした眼差しであひるを見つめ返しました。

「もし僕が心を失って彷徨うことになったら・・・そうなっても、僕の体は、ふぁきあが守ってくれるだろう。そして僕の心は・・・チュチュ、その時は、君が、僕の心を取り戻してくれる?」

本当のところ、王子が何を言っているのか、あひるにはよく理解できませんでした。でも王子のために、そして二つの国のために、できることはなんでもしようと決心していたので、素直に頷きました。

「はい・・・分かりました、王子」
「ありがとう、チュチュ」

静かに微笑む王子の瞳が安堵の色で満たされたのを見て、あひるは嬉しくなりました。

(喜んでもらえてよかった・・・)

あひるは少し心が晴れた気がしました。
 
 
 
 
 

その日の太陽が傾きかけた頃、あひるはこっそり部屋を抜け出して、「北の館」と呼ばれるその建物を包む林の中を歩いていました。

(王子様を助ける・・・あたしにそんなことができるなら・・・)

針葉樹の混じった林は、何とはなく良い香りがして、あひるの心も少しずつ落ち着いてきました。

(そうだ、今できることを一生懸命やろう。王子様の力になって、皆が幸せになれるように努力して・・・そのために来たんだもん)

唐突にあひるの足が止まりました。

(ふぁきあも、王子を守るんだ、って言ってたっけ・・・)

きゅっと胸が詰まり、思わず胸を押さえるように両手を重ね合わせました。

(ふぁきあ、早く帰ってきて・・・一緒に力を合わせて、王子を助けよう?)

「・・・早く・・・帰ってきて・・・」

小さく呟いて溜息を洩らした時、すぐ近くから、聞き覚えのある音楽が聞こえてきました。きょろきょろと辺りを見回すと、唐檜と楡の林の中に一本だけ樫の木が在り、その下に、いつのまにか、見知った人影が立っていました。

「夢は偽りの存在。そして真実の願い。夢見るがゆえに人は苦しみ、けれど夢見ずにはいられない」
「エデルさん!」
「こんにちは、あひる。悩み事かしら」

あひるは曖昧に笑って答えました。

「え・・・っと、ううん、悩み事ってわけじゃないんだけど、ちょっと・・・それよりエデルさんはどうしてここに?」

エデルは黙って、前に抱えていた箱に軽く触れました。すると、バネ仕掛けのように箱が開き、飛び出してきた引き出しの中には、色とりどりの美しい宝石が並んでいました。

「きれい。エデルさんって宝石屋さんだったんだ」

エデルは答えず、白く細い指でその中から青く輝く透明な石を選び取り、掌に載せてあひるに差し出しました。

「これを」
「んん?何?」
「この宝石の名前は夢。沈める光、輝ける闇。闇は光の揺り籠、物語の生まれるところ、幻想は現実に、お話は本当になる」

エデルの言葉に誘われるように、その石から神秘的な青白い光が溢れ出し、あひるとエデルを淡い輝きで包み込みました。あひるは吸い寄せられるように、いつの間にかその宝石を手に取っていました。

「・・・夢?」
「存在は渾然、生まれるのは突然。密かな怖れ、秘めた願い、想いのかけらは万華を映し、うたかたの光が架け橋を遷す。人の心はうつつに力を為し、力は重さを、重さは形を成して、物語を導く」

あひるの掌の上で、石は、澄み切った高い空のような―あるいは、未だ見ぬ海のような―冷たい色合いに反して、中に小さな灯が点ってでもいるかの如く、不可思議な熱を発していました。

「・・・ええっと、エデルさんが言った事よく分からなかったんだけど・・・心で思ったことを夢に見るの?」
「さあ。私にはそれを知ることはできないわ。私はこれを運ぶように言われただけ」
「えっ?それって・・・」

そこに、あんぬとまりいの声が聞こえてきました。

「チュチュ様ぁ」
「どこにバックレてらっしゃるんですかぁ?」

あひるははっと我に返り、首を振って左右を見ました。周囲にぼうっと広がっていた青白い光は掻き消え、辺りを照らしている陽の色は、夕暮れが近いことを示していました。

「あ!あたしちょっと散歩するだけのつもりだったのにもうこんな時間!急いで戻らなくちゃ!さよならエデルさん!」

あひるは慌ててパタパタと自分の部屋に向かって駆け出しました。エデルは片足を引いて軽く膝を曲げ、芝居じみたお辞儀をして、僅かに微笑んでいるようにも見える無表情であひるを見送っていました。
 
 
 

部屋に戻ったあひるは、ふと、掌にその石を握ったままだった事に気づきました。

「あっ、しまった・・・まぁいっか、今度会った時返せばいいよね」

あひるはそれを失くさないよう、大切な物をしまっている箱に入れ、ベッド脇の小さなテーブルに置きました。箱にしまう時、それはもはやあの不思議な光を放っておらず、ただの青い石に見えました。
 
 
 

「よろしい、よろしい。夢見れば願いは叶う、それがお話のいいところ。そして願いが叶うことが幸せとは限らない、それが現実のいいところ。さあ、とびきりの悲劇を見せておくれ」

闇の中でほくそえむ老人の言葉を聞く者は、誰もいませんでした。


 
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