昇り始めた月の、朧に霞んだ柔らかな明かりの下、唐檜と楡の林に囲まれた静かな一角には、どこからともなく芳しい花の香りが漂っていました。ふぁきあはあひるの部屋のバルコニーが見える場所に佇み、開け放たれた扉に静かに掛かっている青白い幕をただじっと見ていました。あひるを忘れることはできないと悟ったふぁきあは、自分の心から逃げ続けるのを諦め、城に戻ることを選びました。せめてあひるを守る騎士であろうと―そして王子とその妃に忠誠を尽くそうと心に決めて。自分自身に対する不安は消えていませんでしたが、これ以上離れていると本当におかしくなりそうでした。夜明けと共に急かされるように宰相家を発ち、昼前には城に着いていましたが、口実も無しにあひるを訪ねることなどできるはずもなく、辺りが闇と静寂に包まれてから、密かに部屋を眺めるのがやっとでした。あひるの姿を見られると思ったわけではありませんが、少しでも近くにいたいと思う気持ちは止められませんでした。
その時ふいに幕が揺れ、つい期待に躍る胸を、風のいたずらだとふぁきあが抑え込もうとした途端、白い薄地の夜着を纏ったあひるが現れました。月光からは陰になっている暗いバルコニーにゆっくりと出てきたあひるを見つめ、まるで水面を滑る純白の鳥のようだとふぁきあは思いました。あひるは俯き加減でバルコニーの手すりに手をかけ、溜息をつきました。その姿が闇に溶けてしまいそうに儚く見えて、ふぁきあは抱き締めて引き止めたい衝動に駆られ、一歩踏み出して―思い止まりました。しかしその幽かな物音にあひるが気づいて振り向き、月明かりの中に出てしまったふぁきあと目が合いました。
「・・・ふぁきあ?」
ふぁきあは反射的に顔を逸らし、立ち去ろうとしました。
「待ってっ!!」
切羽詰った声に引き寄せられるように振り返ると、あひるが手摺りを乗り越えようとしていました。
「バカっ、やめっ・・・」
思わず駆け寄って腕を伸ばしたふぁきあに向かって、あひるは手摺りから身を躍らせました。あひるの白い夜着がふわりとはためき、あひるはふぁきあの腕の中に飛び込みました。あひるを抱き止めたふぁきあはその勢いで背後の草叢に倒れ込みましたが、なんとかあひるは腕の中に収めました。
「ふぁきあ!夢じゃないよね。本物だよね」
あひるはふぁきあの上に乗ったまま、ふぁきあの両肩を押さえて、声を弾ませました。
「戻ってきてくれたんだ!もうどこにも行かない?ここにいてくれる?」
「・・・ああ・・・」ふぁきあは片手を地面に突き、片手をあひるの肘に添えて上体を起こし、体を離しました。あひるの手はふぁきあの肩から滑り降りて、ふぁきあの肘の上を軽く掴みました。
(?・・・あひる?)
ふぁきあは、見つめ合ったあひるが一瞬頬を染めて身を硬くしたような気がしました。が、そう思った時には、あひるはいつもの無邪気な笑顔になっていました。
(気のせい・・・か)
あひるの腕を放し、さりげない様子でふぁきあは尋ねました。
「・・・元気だったか?ここには慣れたのか?」
「うん。王子様もとっても優しくしてくれるし」ずきりと胸が痛むのを隠して、ふぁきあは微笑みました。
「そうか、良かったな」
あひるは嬉しそうに笑いましたが、しかし何かを怖れているようにふぁきあの腕を掴んだままでした。
「お城の人達もみんな親切で、とっても楽しいよ。ノルドの習慣もだいぶ分かってきたし。でもあおとあさんにはいっぱい怒られちゃった・・・あおとあさんって、お母さんが王妃様の妹なんだって。てことは王子様の従兄弟ってことだよね?あんまり似てないよね。あたしとるうちゃんも似てないけどさ・・・そう言えば王子様のもう一人の従兄弟のかーるさんって変な人で、女の子がみんな自分を好きだと思ってるの。あ、ふぁきあは知ってるか。それでね、こないだそのかーるさんに捉まっちゃって、大変だったよ。全然話聴いてくれないんだもん。で、結局あおとあさんが助けてくれたんだけど、ふぁきあがいれば僕がこんなことしなくて済むのに、って文句言って・・・」
楽しそうに話していたあひるの瞳から、突然ぽろぽろと涙が流れ落ちました。
「・・・っ、あひる?」
ふぁきあは焦って、俯いたあひるの肩を両手で包み、顔を覗き込みました。
「・・・寂しかった。ふぁきあがいれば、っていつも・・・思ってた・・・でもっ・・・皆・・・に、心配・・・かけないっ・・・てっ・・・ふぁ・・・きあ、と・・・約・・・束・・・」
あひるは零れ落ちる涙を拭おうともせず、大きな瞳を揺らせて言葉を止切らせながらふぁきあに訴え、ふぁきあは甘い痛みに胸を衝かれました。
(俺の弱さのせいで心細い思いをさせてしまったのに、それでも俺を必要としてくれるのか・・・?)
片手であひるの頬を撫でるように涙を拭ってやりながら、ふぁきあは謝りました。
「・・・悪かった、あひる・・・」
あひるはしゃくりあげながら、なおも懇願しました。
「もう・・・あたしを、置いてか、ないで・・・傍に、いて・・・」
「ずっとお前の傍にいる・・・約束する・・・」ふぁきあは胸にしがみつくあひるを、壊れやすい宝物のようにそっと腕で包み込みました。あひるの涙は、砂漠に降る雨のようにふぁきあの渇きを和らげました。ふぁきあの望んでいる形ではないにせよ、あひるにとって特別な存在でいられるという希望が灯りました。
(お前を守りたい・・・例え俺の想いが永遠に届かなくても・・・)
そのまま強く抱き締めてしまいたいのを堪え、あひるが泣き止むまでずっと、下ろした長い髪を撫でていました。少し落ち着いた頃、あひるがぽつりと尋ねました。
「海を・・・いつか見せてくれる?」
「王子に頼まなかったのか?」あんなに行きたがっていたようだったのにと、ふぁきあは驚きました。
「だってこれはふぁきあと約束したんだもん・・・ふぁきあと行くって決めてたから」
「・・・あひる・・・」込み上げる愛しさで胸が詰まり、ふぁきあは、抱き締めてしまった宝物に唇を寄せないでいるのが精一杯でした。
(言いたい!お前を愛してると・・・)
しかしふぁきあは歯を食い縛り、言葉を飲み込みました。それは再び無視されるのを怖れたためではなく、止まれなくなるのが分かっていたからでした。あひるを想う自分の炎があひるを焼き尽くしてしまいそうで怖くなり、ふぁきあはあひるの腕を掴んで体を離しました。
「・・・バカ・・・しょうがねぇな、そのうち王子に頼んでやるよ」
「うんっ」大きく頷いたあひるの顔は月明かりの中で幸福そうに輝いていて、ふぁきあはあひるの頭を撫で、静かに微笑みました。