Sandmännchen 眠りの精
その夜は結局、一睡もできなかった。窓の外で空が白み始め、ふぁきあはベッドの中でそっと身を起こした。あひるは傍の籠で丸まり、安らかな寝息を立てている。物音を立てないようにゆっくりと立ち上がり、窓辺に近づく。少しずつ薄れていく朝靄の中、深緑の梢の向こうに、あの塔が見える。「・・・くぅわ・・・」
あひるがもぞもぞと身じろぎして、寝返りを打った。そうして再び規則正しく寝息を立て始める。乱れた軽い毛布を、小さな体にきちんと掛け直し、しばらくその姿を眺めていた後、窓の外に目を戻すと、塔の先端がわずかに輝き始めていた。輝きはみるみる増してゆき、みゅうとたちを見送ったあの物見台へ、塔全体へ、そして町へと広がっていく。静かに、だが力強く、全てを包み込んでゆく朝の光。曇り空に覆われた物語の中では、決して見ることのできなかった光景・・・
ふぁきあは窓辺に片手を置いてじっとそれを見つめ―そして、ようやく決心した。
その日は休日だったので―別に、避けられないことを先延ばしにしようとしたわけではない、と思う―時間をかけて朝食を摂った。あひるは、鳥であっても、やはり朝は寝ぼけていて、ある瞬間に、突然ぱちりと目が覚める。ふぁきあはいつもどおりそんなあひるの世話を焼き、一緒に鳥達にエサをやり、元気いっぱいに湖に向かうあひるを送り出してから、淡々と後片付けを済ませた。それからあひるのところへ行こうと上着に手を伸ばし、ふと、脇の棚に置いてあった筆記用具に目を止めた。
『・・・る・・・』誰かの声がする・・・
『・・・あひ・・・る・・・』
誰かがあたしを呼んでる・・・
『・・・あひる・・・!』
「ぐあ?」あひるは気持ちよくうつらうつらしながら、どうにか少しだけ頭をもたげ、ひしゃげた声で答えた。
(あ、あれ・・・?)
寝ぼけまなこでまばたきして周囲を見回すと、辺りはいつの間にか真っ白な霧に包まれている。
<ふぁきあ?>
そんなに長い時間遊んでたような気はしなかったけど、急に天気が変わったのかな?きっとふぁきあが心配して迎えに来たんだ。
あひるは、たぶん桟橋があると思われる方角を見たが、そちらも真っ白で、人影は見えなかった。ただ、黒っぽい緑の梢が、上の方だけぼんやりと霧の中に見えているので、岸からはそれ程離れてないと思う。
『あひる・・・』
あひるは声の聞こえる方に向かって、水を蹴って泳ぎ始めた。
<ふぁきあ、ごめん、あたし・・・>
何かがおかしいと気づくのにそれほど時間はかからなかった。進んでも進んでもあの桟橋はおろか、どこの岸辺も見えてこない。それどころか木立の影さえだんだん低く、薄くなり、とうとう何も見えなくなってしまった。
(な・・・なんで?どうして?)
あひるは焦って必死に水かきを蹴り、さらには小さな翼をばたばたさせてもがいてみたが、もはや、進んでいるのか後退しているのかさえ分からなかった。
<ふぁきあ・・・どこ?!>
さっきまであひるを呼んでいた声も、もう聞こえない。
<ふぁきあ!!>
突然、どこか懐かしい感じのする、眩い光に包まれた。
ふぁきあは筆記用具を見つめて一瞬考え込み、すぐに目を逸らして戸口に―向かおうとしたことまでは覚えている。だが気づけば白い羽を軸にしたペンを握り、いつものようにテーブルの前に座って、紙に向き合っていた。そして目の前の白い紙には、いつのまにか、青味の強いインクが文字列を形作っていた。「な・・・!」
そこに綴られた文章を読み、ふぁきあは椅子を蹴って立ち上が・・・ろうとした。
「くそっ!」
体が動かない。いや、正確に言うと、自分の意志では動かせない。ペンを握った右手は、ふぁきあの意志から離れて勝手にインク壷へ伸び、紙の上を動く。ふぁきあはとっさに左手で右腕を掴み、さらに全身の体重をかけて押さえ込んだ。
「またお前か?!ドロッセルマイヤー!!」
テーブルに上半身をうつ伏せた体勢のまま顔を上げ、周囲に鋭い視線を投げた。
「俺はもうお前には操られないぞ!!」
『おやおや、こいつは驚いた。私のせいにされるとは』間違いなく、聞き覚えのある声が答えた。だが必死に首を巡らしても、どこにもあの奇妙な姿は見えない。あの時のように消えては現れるというわけでもなく、見慣れた室内には空気の揺らぎすらない。それどころか―声はするのに―全く気配が感じられない。これはいったいどういうことだ?たった今書き綴った物語からは、確かに、強力な『紡ぐ者』の力があふれ出しているのに・・・
『だが、これなら少しは楽しませてもらえそうかな?』
「ドロッセルマイヤー!どこにいる?今度は何を企んでいるんだ?!」
『私がどこにいるか、お前は知っているだろう?<時間の狭間>という名前は知らなくてもね。お前がそこからチュチュを導き出した。そしてお前自身・・・』
「またお前が連れ去ったのか?!あいつを!」せっかちに遮ったふぁきあを、ただ哀れむようにハッハッと嗤って、ドロッセルマイヤーは―彼の声は―言った。
『あひるちゃんはここにはいないよ。もちろんチュチュもいない。だってあひるちゃんは<お話>の中にいるからね!お前が望んだとおりに・・・いや、怖れていたとおりに、かな?』
「くわあぁっ!」光がはじけると同時に、水でできた殻が割れたような感覚があった。次の瞬間、ぷかりと浮かび上がる。体を支える水面を感じながら、あひるはぷるぷると頭を振って水気を払った。
「…あひる?」
ぱっと目を開けて声のした方を見上げ、とたんに胸の底から湧き上がる喜びでいっぱいになった。
<るうちゃん!みゅうと!>
「あひる!」春の若草に覆われた土手を駆け下りてくる懐かしい人達に向かって、力強く水を蹴る。
<会いたかった!>
「私も会いたかった、あひる!」優雅なドレスの裾をふくらはぎまでたくし上げ、るうが水際に駆け込んで来る。広げられた腕に向かって、小さな翼を精一杯ばたばたと羽ばたいて飛びついた。結い上げたつややかな黒髪にきらめくティアラを付けたるうは、美しい衣装が濡れるのも構わず、しっかりとあひるを抱き締めた。その後ろから、みゅうとが温かな琥珀の瞳に笑みを湛えて覗き込む。
「あひる、元気そうだね。良かった」
堂々とした絹と毛皮の衣装をまとい、金の王冠を戴いたみゅうとの姿に、あひるの胸が熱くなった。
<わあ、みゅうと・・・ホントのホントに、王子様なんだね・・・>
るうとみゅうとが目を見交わし、あひるに微笑んだ。
「今はもう王子様じゃなくて、王様よ。三か月前に、無事、戴冠したから」
<王様?!>少し誇らしげなるうの言葉に、あひるは目を白黒させた。みゅうとがいたずらっぽく笑い―みゅうとのこんな表情が見られるなんて、あの頃は思っても見なかった―軽く曲げた指の背で、愛しげにるうの頬をつつきながら言った。
「そしてるうは王妃様だ」
るうはぽっと頬を染め、あひるは仰天した。
<お、王妃様?!>
「ええ、そういうことになるわね」
<えっ、で、でもでも、みゅうとが王様でるうちゃんが王妃様ってことは・・・>口をぱくぱくさせながら、二人の間でせわしなく視線を移動させるあひるに、るうが気恥ずかしげに早口で答えた。
「ええ、そう、私たち、結婚したの」
<ケッ、コン?!>ああ、これじゃまるで猫先生だよ・・・と、叫んでしまってから気がついたけど、それぐらい、びっくりした。いや、でも、もともとそのはずだったんだから、そんなにびっくりすることはないわけで・・・たぶん、びっくりし過ぎちゃったんだろう、るうが言い訳するように付け足した。
「だってそういうしきたりだから。戴冠からひと月以内に妃を娶らなきゃならなかったのよ」
「違うよ、るう」みゅうとがいたずらっぽい笑みで口を挟んだ。
「しきたりだから結婚したわけじゃない。早くるうと結婚したかったからしたんだ」
白い肌を首まで真っ赤にしたるうの手を片方取り、みゅうとがうやうやしくキスをする。あひるはおとぎ話のような光景にぽうっと頬を染めながら、うっとりと、仲睦まじい二人の様子を見つめた。
(いいなあ・・・るうちゃんもみゅうとも幸せそう・・・よかった・・・)
<おめでとう、るうちゃん、みゅうと!あ、でも、二人の結婚式、見たかったなぁ>
「あひる・・・」
「そうだね。呼べなくてごめんね」
<ご、ごめんだなんて!だってしょうがないもん。みゅうと達のせいじゃないし>その時あひるの胸をちらっと翳がよぎった。
<ふぁきあは?>
「え?」首をかしげたみゅうとに、あひるは―なぜかおずおずと―尋ねた。
<ふぁきあは知ってた・・・のかな?>
みゅうとはるうと一瞬顔を見合わせたが、すぐに穏やかな微笑をあひるに向けた。
「どうかな。僕達はふぁきあの存在を感じるだけで、ふぁきあが何を見てどうしてるのかとかは、はっきりとは分からないんだ。ふぁきあは極力、僕達の物語に関わらないようにしてるみたいだしね。ただ・・・」
そこでちょっと考えるように間が空いた。
<なに?>
「・・・なんでもないよ」にっこり笑ったみゅうとにあひるは首をかしげたけれど、るうが咳払いしてあひるの注意を引き、明るい声で問いかけた。
「ところで、あひるは?」
<えっ?あたし?>
「そう。ずっと元気だった?何か変わったことはあった?ふぁきあとは仲良くやってるの?」
<なっ、ななな仲良くだなんて、そそそ、そんなこと!>つい焦って、るうの腕の中でバタバタと両翼を振ってしまったあひるは、あっけにとられた顔をしているるうとみゅうとを見て、はたと翼を止めた。過剰な反応をしてしまったことに気がついて恥ずかしくなり、今度は首をぶんぶんと縦に打ち振る。
<あっ、うん、そうそう、仲良くしてるよ。ふぁきあって意外に・・・て言うか、ほんとはすごく優しくて、あたしのことも大切にしてくれて、そりゃ時々はケンカもするし、たまに・・・時々・・・しょっちゅう、イジワルだけど・・・>
るうがくっきりした双眸をきっと吊り上げたので、あひるは慌てて取り成した。
<あの、でも、それってあたしのため、みたいだから。・・・たぶん、だいたいは・・・>
るうとみゅうとが再びちらと視線を見交わした。
<え?どうかした?何かヘン?>
「あひる・・・」ためらいがちに何かを言いかけたるうを遮るように、みゅうとが話しだした。
「じゃあ、とりあえず城に案内しようか。あひるがゆっくりできる部屋を用意するよ。しばらくここに滞在することになるだろうから」
<え?しばらく?>その言葉に、急に不安を覚えた。そういえば、二人に会えたことが嬉しくて舞い上がっちゃってたけど、るうちゃんとみゅうとがいるってことはココは二人の『物語』の中ってことで・・・てことは、金冠町の、あたしが住んでる世界とは別の世界ってことで・・・てことは、今はふぁきあと離れ離れになっちゃってて、その上どうしてそうなったのか、いつどうやったら戻れるのかも分からないってことで・・・
「心配しないで、あひる」
パニックになりかけたあひるの頭にみゅうとがそっと手を置いた。
「だいじょうぶ。なんとかなるよ。きっと何もかも、上手くいく」
みゅうとは、最後の一言はあひるではなく、るうの方を見て言った。るうがわずかに愁眉を曇らせ、ほとんど分からない程度にうなずき返す。みゅうとが、ふぁきあがいつもやってくれるみたいに優しく頭を撫でてくれた。ぴこぴこと冠羽が揺れるその感覚で、ちょっと落ち着いた。
<あれ?そう言えば、今、あたしアヒルなのに、二人ともあたしの言葉が分かるの?>
「え?」アヒルのあたしがしゃべる声は、ふぁきあ―とドロッセルマイヤーさん―以外には、アヒルの鳴き声にしか聞こえないんだと思ってた。
「ああ・・・そういえばそうね」
ちらりと、るうがみゅうとを見る。みゅうとが、あひるを抱いたるうに片腕を回して岸辺へと促した。
「・・・それはたぶん、あひる、君自身が、ふぁきあの力を映し出してるんじゃないかな」
「え?!ど、どういうこと?」急に身を乗り出したせいでるうの腕から落ちそうになり、あわててしがみついた。
「あひる、危ないわよ!」
「ごめん、るうちゃん」るうはみゅうとと歩調を揃えて砂地の岸辺を歩きながら、あひるをしっかりと抱き直してくれた。二人と、腕の中の一羽は、湾曲した湖に突き出した半島のような丘の斜面を上り、まばらな林に入った。
「ここと金冠町はひとつながりの物語みたいなものだし、それにふぁきあは、君を通して物語を書いてるようなものだからね」
そうだったの?だけど、それっていいこと?それとも・・・
るうが急に軽い口調で―あんまりるうちゃんらしくない口調で―言った。
「金冠町でも、みんな姿は色々だったけど、普通に会話してたじゃない。見かけは重要じゃないのよ、きっと」
「さあ、ほら、あひる、あれが僕らの城だよ」くるっと首をめぐらせてみゅうとが指差す方向を見たとたん、あひるは何を言おうとしていたのか―何かを言おうとしていたということさえも―きれいさっぱり忘れた。
「くわぁ・・・」
「・・・<お話>の中・・・?」自分でもほとんど聞き取れないくらいの、かすれた低い囁きだったが、ドロッセルマイヤーは聞き逃さなかったらしい。姿の無い濁声がハハッと楽しげに嗤った。
『そうとも、「王子とカラス」の物語、いや、今は「王子とプリンセス」の物語かな?あるいはもっと別のお話かもしれないね。私にはもう関わりのないことだが』
「関わりがないだと?! 」目の前にいたなら喉元を掴んで締め上げていただろうが、どれほど必死に目を凝らして辺りを探っても、馬鹿にしたようにからかう声が聞こえてくるばかりで―それもあちらこちらと違う場所から―ドロッセルマイヤーの影すら捉えることはできなかった。
「お前があいつに・・・いや、<物語>に、何か仕掛けたんだろう?!何を狙ってる?!あいつに何をした?!」
渾身の力を振り絞り、左手で右手から白い羽根ペンをもぎ取る。
「物語に直接手を出せないから、俺を使って操ろうと企んだのか?!そうは・・・させるか!」
荒々しく投げ捨てたペンが床に転がり、細く青黒い筋を描いた。どこからかあきれたような溜息が聞こえた。
「やれやれ、相変わらず短気な。いったい誰に似たのやら・・・」
「俺は―俺達は、お前の思い通りにはならない。決して!」がたん、と立ち上がり、中空を睨み据え、拳を握り締める。手に剣は無いが、全身に力をみなぎらせ、肩を反らして対決姿勢をとった。だが、今度は背後から、みじんも感慨を覚えた様子のない、乾いた声が答えた。
「まあ、ある意味ではそうかな?お前は私が思ってたより良い紡ぎ手だったよ。おかげでお話が面白くなってきた」
「何だと?」さっと振り向いたが、部屋の中はいつにも増してしんとして、見慣れた質素な設えが静まり返っているだけだ。
「卑怯だぞ、ドロッセルマイヤー!姿を現せ!」
再び別の場所から声がした。
「無茶なことを。そこはもう、私の物語じゃない。お前が私のカラクリを壊してしまったからね。まったくお前は、いつでも何でも後先考えずに壊してしまう。王子の剣しかり・・・」
「御託を並べてないで、答えろ、ドロッセルマイヤー。お前の物語でないと言うなら、なぜ俺達にちょっかいを出す?あいつに何をさせるつもりだ?俺の呼びかけに答えたのはなぜだ?何か俺に言うことがあるからじゃないのか?」
「・・・どうしてなんだい?<お話>が止まってしまったのは?」びくっ、とふぁきあの体が震え、瞬間息が止まった。
「永遠に繰り返す物語、永遠に終わらない物語・・・そのお話を紡ぐのは・・・誰だい?」
吟遊詩人が物語を謡うように―ただし、からかいを含んだ口調で―声が問う。知らず知らず体が小さく震えだす。
「こうであってほしいという結論に飛びつくのは簡単なことだ。思い込みを捨ててよーく考えてごらん。お前は、『本当の自分』をよく知ってるんだろう? 」
・・・誰も守れない騎士・・・
「違う!俺は・・・」
「止まってしまったお話を動かすのは誰なんだい?その者に、その役割を与えるのは?」詰まったような喉からかすかに息が漏れた。
「俺が・・・すべて俺の意思でやったと?」
「おっと、こんなことをしてはいられない。じゃあねぇ。また話せるよ。私が話したい時にね」
「おい!待て!!」突き出した手がむなしく宙を掴む。静まり返った部屋に、かち、こち、という柱時計の音だけが響く。ふいに力が抜け、一気に肺に空気が流れ込んでくるような感覚があった。体がぐらりと傾ぎ、目の前に床が迫った。