Nur wer die Sehnsucht kennt ただ憧れを知る者のみ



 
そうして今は、林檎の花が満開になり、かつて二人が初めて会話を交わした季節になっていた。
レッスン室でみゅうとをはさんでのアレを、会話と呼ぶなら、だが・・・

「…何してる?」
<あ!おかえり、ふぁきあ!>

ふぁきあは扉から部屋の中ほどまで3歩で進み入り、教科書の束を片手に抱えたまま、もう一方の手でダイニングテーブルの端からぶら下がっているあひるを受け止め、床に下してやった。

<えっとね、窓から射してた光がちょうどテーブルの上で舞台の照明みたいって思って、で、気持ち良く踊ってたら、うっかりして足踏み外しちゃって。ちょうどふぁきあが帰って来てくれて助かったよ>
「『助かったよ』じゃねーよ。そそっかしいんだからな、お前は」

物語が終わって一年が過ぎたが、あひるはやはり黄色い雛のままだった。
ふぁきあは自分の力が―意図的ではないにせよ―影響していることを、もはや疑っていなかった。だが、あひる自身がそのことをどう考えているのかは―そもそも考えたことがあるのかどうかも―やはり、さっぱり分からなかった。

<そんなことよりさ、今日はずっといいお天気で、気持ち良かったね?あったかかったし>
「ああ…そうだな。もう季節が逆戻りすることはないだろう」

あひるの姿が変わらないのには、別の理由があるかもしれない、という疑念―怖れと言うべきか?―が頭の片隅をかすめることも無いわけではなかった。…『あひる』という存在―『紡ぐ者』、そしてその物語と、強く結びついた存在―それ自身に起因する、根本的な理由が…
しかし、今の生活の正当性を根底から覆すことになるその考えを、ふぁきあは強いて意識から締め出した。

<学校は?何かおもしろいことあった?>
「別に。変わり無い」
<そういうことじゃなくてさ…>

かくしてふぁきあは、前以上の注意を払って、あひるを人目から遠ざけるようになった。紡ぐ者の力で、ある程度つじつま合わせができるとはいえ、誰かが矛盾に気づく危険は冒せない。あひるが接することができるのはふぁきあとカロン、それからあひるの姿など気にもしない(らしい)鳥仲間と、あとは懲りずに訪ねて来るあおとあくらいになってしまった。だがあひるは特に抗議もせず、ふぁきあは罪悪感と、一抹の不安―自分の力だけでいつまでこれを続けられるのか?―を覚えながらも、何も言わなかった。
まるで二人とも普通に、当たり前の生活を送っているかのように。
 
 
  <ねえ、ふぁきあ>

表面上は、穏やかな、希望に満ちた物語が続いていた。レーツェルとハンスは結婚して外の街で暮らし始め、ふれいあは高名な振付家に見いだされて彼の主宰するバレエ団に入り、まれんとライサンダーはそれぞれ大きな美術コンクールで入賞した。金冠町には外から訪れる人々が増え、えびねの店は繁盛し、あおとあの家は本格的にホテルとして客を泊めるようになった。一方で、自分の役割を見失ったかのように気の抜けた様子でふらつく者や、逆に、外から無制限に流れ込んでくる様々なモノに翻弄されてしまっている者もいた。
ふぁきあはそれらのこと全てを注意深く見つめ、物語を綴っていった。

「ん?」

カロンは今まで通り黙々と働き、あの後あきらかに増えた仕事にも、骨董修理のマイスターらしく地道に向き合っていた。ただ時折、少し寂しげな、わずかに老けた様子に感じることがある。自分とあひるが家を出てしまったせいだろうか、と思うと、心苦しかった。だが、自分の力にはまだ不安定な部分があるということをふぁきあは自分でも承知しており、起こりうる様々な問題―自分の運命にカロンを巻き込んでしまうことも含め―を避けるためにはこれが一番なのだと自分を納得させた。

<あしたは学校、お休みだよね?>
「ああ」

そういった諸々のことをふぁきあは気にかけてはいた。が、一番気懸かりだったのは、冬が去り、菜の花が景色を黄色く染める頃から、あひるの様子が変わったことだった。時々、ふぁきあが傍にいない時に、あひるは夢見るような瞳で遠くを見る。そのままどこかに行こうとしているかのように・・・

<あのさ…もしよかったらなんだけど…>

あひるの見ている先がどこなのか、予想はついた。もちろん―これを、もちろん、と言えることにすら罪悪感を覚える―あひるはそんな時でも、ふぁきあに気づくといつも嬉しそうにパタパタと寄って来る。けれども心に染みついた不安は、決して消えることはなかった。昔、ふぁきあを苦しめていた、右肩のアザのように・・・一人で怯えていたあの頃のように・・・

「なんだ?」

あひるの胸にはいつも、ふぁきあが贈った赤いペンダントが輝いていた。それは二人を繋ぐ象徴になるはずだった。だがそれを見るたびにふぁきあは、あの時のあひるの言葉を思い出さずにはいられなかった。

《・・・またみゅうとやるうちゃんに会えそうな気がするよ!》

<町の壁のそばに公園があるじゃない?ほら、リンゴの樹のある…>
「ああ」

胸に刺さった疑念は、毒を持つ棘のように、あるいはどこからか混じり込んだカラスの血のように、認めまいと足掻けば足掻くほどにますます深く喰い込み、心を蝕んでいく。

<あそこにピクニックに行こうよ!>

・・・お前は、ここにいて、いいのか?

「ピクニック?」
<うん。今頃ちょうど花が咲いてるでしょ?あったかくなったし、お弁当と飲み物持ってさ…>

ふぁきあはとっくに気づいていた。かつて運命を変えたあの時―『絶望の湖』の底であひるの手を取って踊ったあの時、ずっと一緒にいたいと望んでいたのは自分の方で、あひるではなかったということに。あの時はただあひるの力になりたくて、現実を受け入れることを怖れるあひるに、「全てを失ってしまうわけではない」と伝えたくて、自分がずっと傍にいてやると言った。だが、あひるが望んでいたのは、本当は、もっと別のことだったはずだ。あひるが望んでいたのは―「物語が終わらなければいい」とまで思い詰めてしまうほど、傍にいたかった相手は、俺じゃない。そもそもあひるは王子のためのプリンセス、王子のための存在だったのだ。今ここで姿が変わらないのも、おそらく・・・

「・・・ああ。わかった」
<ほんと?やったぁ!>

自分がどうすべきなのか、頭では分かっていた。だが、できなかった。可能かどうかは別として、勇気が無かった。ふぁきあは心の底であひるの言葉を―ふぁきあの望みを赦し、認めてくれる言葉を、切望していた。けれどあひるは、なりゆきでごく当たり前のようにふぁきあの傍にいるだけで、あひる自身がどうしたいかということを一切言わなかった。
 
 
 
 
  その日ふぁきあとあひるは、町の壁沿いの公園にピクニックに来ていた。ピクニックなら家の傍の湖でもいいようなものだが、あひるがここに行きたいと望んだからだ。特に人払いを―紡ぐ者の力を使って―したわけではなかったが、公園にはひと気は無く、初夏を思わせる陽射しが若草の緑に降り注いでいた。時折、心地良いそよ風が、草いきれと湿った土の匂いを載せてふわりと吹き抜ける。

木陰でパンと果物の軽い食事を摂った後、黙って本を読むふぁきあの膝を枕にして、あひるは、舞い散る林檎の花を目で追っていた。端がほんのりと薄紅に染まった白い花びらが、夢の中の雪のように、二人―一人と一羽―の周りに降りかかる。近くに落ちてきた一枚をじっと見つめ、あひるが、ふと呟いた。

<『ねぇ、わたしのこと、好きって言って』>

ふぁきあは一気に耳まで赤くなって、目を上げた。

「な・・・なんだ、突然」

あひるはひらひらと踊る花びらに目を留めたまま、ふぁきあを顧みることも、彼の動揺に気づくことも、なかった。

<るうちゃんがそう言ってたんだよ。ここで>

ふぁきあはまじまじとあひるを見たが、あひるは白い花びらに彩られた緑の芝生を見回して小さく笑った。

<みゅうととピクニックしてたの。んで、るうちゃんがそう言ったら、みゅうとは、『るうのことが好き』って・・・>

ふぁきあが何も言わなかったのであひるは頭上を振り仰ぎ、そこに浮かんだ奇妙な表情を見て、慌てて付け足した。

<あっ、別にあたし、覗いてたわけじゃなくて、二人を探してたらここで見つけて、邪魔しないようにしようって思ったんだけど偶然聞いちゃって、ほんとはふぁきあが探してたよって二人に注意してあげようって思ってたんだけど、あっ、注意って、あの頃はふぁきあのことヤな奴だって思ってたからで、でもふぁきあのことは誤解してただけで、でもでもあの頃はそれも仕方なくって・・・>

自分でも何を言おうとしたのか分からなくなって両翼をじたばた打ち振っているあひるを、ふぁきあはじっと凝視していた。が、不意に、心を無くした王子のように抑揚の無い声で呟いた。

「あひるのことが好き・・・」

あひるはぱっと頬を染めてふぁきあを見つめた。

<本当に?>
「本当に・・・」

ふぁきあが同じ調子で答えると、あひるは恥ずかしそうに、だがとても幸せそうに笑った。まだらに落ちる葉の陰になり、ふぁきあの表情はよく分からなかった。ふいに風が林檎の葉を揺らし、踊った陽射しで、あひるの胸元が一瞬赤く、強く輝いた。
 
 
 
 
  「つまらんつまらん、全くもってつまらん」

べったりと黒一色で塗り籠めたような闇。その中にいくつかの、影の無い物体が、バラバラと浮かび上がっている。

「気まぐれに覗いてみたが、やっぱり面白いお話は聞かせてもらえそうにもないね」
「どうしてずら?『ハッピーエンド』じゃないずらか?」

トタタン、と軽やかな打音がした。

「だからさ」
「ほわー?」

小さな道化のような小太鼓を下げた子供が首をかしげ、せわしなく揺れるかたわらの安楽椅子を見上げる。

「このお話は勇気と希望に満ちあふれている―『本当の自分』が見る夢にね。ブラボー!でもこのお話はどこへも行けないよ。なぜって、かなう夢しか見ないなら、勇気も希望も必要ないからね」
「どういうことだずら」
「さて、どういうことなんだろうねぇ?夢を見た自分と、夢をかなえた自分。どっちが『本当の自分』だい?」
「わかんないずら」

宙に浮いた椅子が、ぎいっ、と、軋んで止まった。

「『本当の自分』が真実なら、『本当の夢』もまた真実。だが彼らは怖れている。夢がかなわないことではなく、夢を見る痛みや苦しみを。自分にとっての 『本当』をごまかしている限り、『本当の物語』は書けないよ」
「いまは『ほんとうのじぶん』じゃないずらか?」

奇妙な風体の老人が急に身を起こした。

「さあ、どうかな?まあいいさ、私にはもう用の無い物語だ。・・・ところで、お前もそろそろここに居るのに飽きてきたんじゃないかい?ちょっと遊びに行っておいで」
「おおー!遊びに行くずらー!」

小太鼓の音がけたたましく連続的なリズムを刻んだ。


 

 続き Fortsetzung

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