「どうかしたのか?」
「・・・別に」

ふぁきあは知らぬ間に止まっていた右手を動かし、すっかり乾いてしまったペン先をインク壷に浸して軽く振った。あひるが外で遊んでいる間に、もう少し書いてしまわなければ。壁際の椅子に陣取ったあおとあが、開いた本の向こうから、眼鏡の奥の目を光らせて探るように見ているのは無視した。右手を、最後に書いた単語の右側に戻し、再び、見えもせず聞こえることもないものを言葉に捉えようと、神経を集中する。文字があふれ出すままに、紙の上にペンを走らせる。が、数行も進まないうちに、またしても重い霧に包まれたように手が止まった。

おかしい。

ふぁきあは異変に気づいていた。金冠町、すなわちふぁきあの物語ではなく、みゅうとの物語の方に生じた異変に。みゅうとが自分の物語に帰って行った後、ふぁきあはそれに手出しこそしなかったものの、常に気にはかけていた。そこで起こる事すべてを明確に認識できるわけではなかったが―もしかしたら、文字にすれば、もっとはっきり感じ取れたのかもしれないが―だいたいどんな様子かは分かったし、逆に彼らがこちらの存在を感じていることも分かっていた。それはおそらく二つの世界が、今でこそ別の物語だが、元のところは同じものだったからだろう。みゅうととるうが、彼らを待っていた物語に自然に溶け込み、希望に満ちた新しい暮らしを順調に紡いでいることも知っていた。しばらくは何の問題も無かった・・・少なくとも、冬までは。おかしくなったのはこの春からだ。

いや、違う。

ふぁきあは頭を振って訂正した。冬からだ。最初に小さな違和感を覚えたのは、クリスマスの後だったと思う。ただその時は、うっすらした影が物語をよぎったのを感じただけだったので、気にはなったものの、そのまま様子を見た。それから何ヶ月かはまた何事も無く、平穏に過ぎた。

長い冬が終わりに近づき、明るい春の光が兆し始める頃、みゅうと達の世界で大きな出来事が有ったようで―その出来事自体は決して悪いことではなく、むしろ喜ばしいことのようだったが―ふぁきあは物語が大きく変化したのを感じた。それが何だったのか、ふぁきあには推測がついていたが、なぜかそのことを誰にも・・・あひるにも言っていなかった。意図して隠したわけではなく、なんとなく言うタイミングを逃してしまっただけだが。しかし、いずれ折を見て、さりげなく教えてやるつもりではいる。

・・・もちろん、そのつもりだ。

ともかくその後からだった。みゅうと達の世界に不穏な空気を感じるようになったのは。そうしてそのせいで、ふぁきあはますます、言いそびれていることをあひるに切り出せなくなっていた。

たいした問題ではないのかもしれない。それにみゅうと達の問題は、みゅうと達が解決しなければならないものだ。俺は黙って見守っているべきなのかもしれない。

ただ気になるのは、ドロッセルマイヤーの動きだった。確証はないが、ふぁきあは物語の空気に微妙な違和感を―いや、むしろ既視感と言うべきか?―覚えていた。何か微妙な・・・『紡ぐ者』の力が働いているような、親密な異質さを。ドロッセルマイヤーの力の強さをふぁきあは身をもって知っていた。

もしヤツがまたみゅうと達を操ろうとしているのなら、干渉させないように何かするべきか?・・・もっとも、そうすることで話をよけいにややこしくしてしまうだけかもしれない。だが少なくとも、何が起こっているのかをはっきりさせる必要はあるんじゃないか?

どうするのが正しいのか、ふぁきあには判断がつかなかった。そして今のところ誰にも相談できず、独りで考えるしかなかった。ふぁきあは迷った。

あひるに話すべきだろうか?何もかも?

あひるならみゅうと達を救えるだろう。金冠町で、みゅうとや、ふぁきあや、大勢の人々を救ったあの時のように。あひるはたぶん、みゅうと達を助けに行きたいと言うに違いない。もし俺の『紡ぐ者』の力で、あひるをみゅうと達の物語の中へと導くことができるなら・・・

・・・ドロッセルマイヤーが、以前、そうしたように・・・
 
 
  「それにしてはペンが進まないようだが。何を考えている?物語に支障があるのか?何か特別な問題が持ち上がった時には教えてくれる約束だっただろう。忘れたのか?」

ふぁきあは口の中で舌打ちし、意気込んで身を乗り出すあおとあをちらっと睨んだ。まるで獲物を前にしたネコだ。あおとあに先のように言ったのは、万一の場合の抑止力にと思ったからだが、間違いだったかもしれない。

「そうじゃない。この物語には何の問題も無い。少なくともお前が興味を持つようなことは」
「じゃあ何が・・・」
「お前には関係無い」
「じゃああひる君には関係があるのか?」

物語の力で他人を操るという選択肢を、ふぁきあは初めて真剣に検討した。だがそうする代わりに、ドスを効かせた低い声で言った。

「今すぐその口を閉じて、これ以上邪魔をするな。さもなければここから叩き出す。いいな?」

あおとあは、フン、と不服そうに鼻を鳴らしたが、おとなしく口をつぐみ、人差し指で眼鏡の位置を直して手元の本をめくった。ふぁきあは再び書きかけの物語に戻った。あおとあがちらちらと様子を窺ってくるのは、やはり無視した。
 
 
 
 
  その日は、珍しくあひるが学園までついて来たがった。ふぁきあは渋ったが、あひるが熱心に頼むので、とうとう折れた。幸い、と言うべきか、この時期ならば黄色いアヒルの雛がいても、それほど変に思われずにすむ。くれぐれも人目を引くような行動を慎むようにとあひるに言い含め―たぶん無理だろうとは思ったが、騒ぎが起きたら授業中だろうとなんだろうとすぐに駆けつけるつもりでいた―ふぁきあはあひるをレッスン室の裏の林に下ろし、何度も振り返りながら授業に向かった。
 
 
  更衣室へと消えるふぁきあを見送った後、あひるは少しの間、学園内をうろついた。ぴけとりりえは教室で授業を受けていた。長机に並んで座った二人の間にちょうど一人分の隙間が空いているのを見て、あひるの胸はかすかに痛んだ。教室の座席数には充分ゆとりがあったから、詰めて座っていなかったのは不思議ではないのかもしれない。けれどその空き方はまるで、二人が無意識にそこに誰かがいるものと思っているかのように見え、あひるは、二人に大声で呼びかけたくなるのを必死で我慢した。


 

 続き Fortsetzung

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