しばらくじっと見入っていた後、あひるは想いを振り切るように窓から飛び降り、音楽の流れてくるレッスン室の方へ向かった。学園に連れてきてもらった一番の理由―ふぁきあのバレエを見るという目的を果たすために。先日あおとあがふぁきあに試験の話をしているのを聞き、あひるは、ふぁきあが踊っているところをずいぶん長いこと見ていないのに気がついた。どうしてもふぁきあのバレエを見たい。狭い家の中で中途半端に踊るのではなく、ちゃんと全身で踊っているふぁきあを。ちょうど一年前の今頃、授業で見ていたように。・・・あの頃のあひるは、みゅうとの繊細で美しい踊りに惹きつけられていたけど、ふぁきあの動きがダイナミックで力強く、みゅうととは別の意味で見る者を圧倒していたのは覚えている。

あひるはレッスン室の建物の外階段を目指して、植木の陰を縫いつつ、中庭を突っ切った。ぴょんぴょんと階段を登ってベランダに上がり、窓に飛びついて中を覗く。懐かしい光景が目に入った途端、あひるの心は一瞬にしてあの頃に戻っていた。大練習室では上級クラスと特別クラスのレッスン中だった。ふぁきあは今でもやっぱり特別クラスらしい。あひるが初めて見る先生が―短い灰褐色の巻き毛と、青みがかったグレイの力強い瞳が印象的なこの先生が、猫先生の後にバレエ科に来た先生なんだろう―自分で踊ってみせながら、熱心に何かをしゃべっている。なんだか先生自身、踊りたくて仕方ないみたい。でも、いい先生だ、ってふぁきあが言ってた。踊りの技術もだけど、目線とかちょっとした動きで生まれる『表現』を教えてもらえるって。この先生を見てると、あふれるようなバレエへの情熱が伝わってくる。練習着の裾を片足だけ膝まで捲り上げてるのは、なんでだか分からないけど。

先生が何か指示して、ふぁきあと、同じ特別クラスの女の子が立ち上がり、あひるははっとした。女の子は小走りに、ふぁきあはゆっくりと皆の前に出て、少し離れて立つ。ピアノの音が聞こえてきて―見えないけど、今もペンギンさんが弾いてくれてるのかな―二人は一緒に踊り始めた。あひるも知っているそれは、白鳥の湖の第2幕、恋に落ちるジークフリート王子とオデット姫の踊り。ためらうオデットに、力強い動きで熱っぽく想いを訴えるふぁきあを、あひるはうっとりと眺めた。

(やっぱり、ふぁきあ、上手・・・)

実際はふぁきあは気もそぞろで、あまり身を入れて踊っておらず、見る人が見れば雑な踊り方をしているのは明らかだったのだが、そこはあひるの欲目だったのだろう、久しぶりに見るふぁきあの踊りはわくわくするほど素敵だった。二人が手を取り合って優雅なパ・ド・ドゥを始める。あひるはすっかり惹き込まれ、自分が窓にしがみついているのを忘れてしまった。ふぁきあの腕の中で身を反らせるオデットに合わせて、つい一緒に身を反らせ、当然の帰結として、窓から転げ落ちた。

「ぐっ・・・!」

かろうじて翼で口を覆って叫び声を押し止め、そのままころころとベランダの床に転がった。

「くぅ・・・」(いたた・・・)

ベランダの真ん中で空を見上げて横たわり、あひるは気づいた。

(あたしは、もう、踊れない。ふぁきあと踊るのは・・・あたしじゃない・・・)

いや、そう言ってしまうのは正しくないだろう。ふぁきあはあひるが望む時にはいつでも一緒に踊ってくれた。鳥のあひるの体を支え、ピルエットさせ、リフトもしてくれた。けれどあひるが望んでいたのはそういうバレエの『真似事』ではなかった。ぴったりと体を沿わせ、呼吸を合わせ、一つになって踊りたい。以前そんなふうにした記憶が在るだけに、その想いは一層切なくあひるの胸を刺した。両翼を広げて仰向けに寝転がったまま、あひるはしょげた。

(ふぁきあと踊りたい・・・)

優しい空の青が滲んだ。
 
 
  だが、幸か不幸か、いつまでもそうしてのんびり寝転がってはいられなかった。これが野生の勘というものだろうか?あひるはふと不穏な空気を感じて頭をめぐらせ、瞬時に固まった。

(ネ、ネネネネコっ?!)

ベランダの階段の陰に、目をらんらんと光らせた獣が身を潜めていた。見覚えが有るような無いような・・・

(って、そんなこと考えてる場合じゃないよ!)

ネコが今にも飛び掛ろうというように頭を低くしてお尻を持ち上げ、あひるは慌てて飛び起きて逃げ出した。表彰モノの勢いでベランダを駆け抜け、反対側の階段から転げ落ちる。

「ぐわわわわっっ」

無事に―とは言いがたいけれども―地面に到着したあひるは、周囲も確認せず、無我夢中で走り出した。とたんに目の前に現れた段差をよけようと飛び上がった瞬間、突然横からドアが開き、あひるは、出てきた誰かの後ろを通り抜ける形で思い切りドアにぶつかった。そのまま、閉まるドアに沿って滑り落ちながら部屋の中へと押し込まれる。ばたん、とドアの閉まる音を聞きながらしばし床の上に伸びていたあひるが、ぐるぐる回る頭をどうにか持ち上げ、周囲を見回してみると・・・ここ、何だか見たことあるような・・・ここは、ええっと・・・男子更衣室?

(どっ、どうしよう?!ここにいたらまずいよ!)

と思ったのは、女の子だった頃の感覚のせいだったのかもしれない。実際には、部屋の外の脅威を思えば、そこに居た方がよほど安全だったけれど、パニックになっていたあひるにはそこまで気が廻らなかった。あひるは後先考えず慌てて逃げ出そうとし、必死に取っ手に飛びついた。が、当然アヒルにはドアは開けられなかった。

じたばたしているうちにドアの向こうに人の気配がした。とっさに部屋の反対側に―奥の方に向かって走ったあひるは、突然、慣れた匂いに気づき、何のためらいもなくそのロッカーに潜り込んだ。几帳面にきちんと畳まれた青い制服の上にちょこんと座ったあひるの耳に、数人の生徒が入ってきた物音が聞こえた。そして数秒後、思ったとおりの人が扉を開ける。

(・・・ああ、おんなじだ。あの時と・・・)

扉を開けたまま動きが止まっているふぁきあに向かって、あひるは照れ笑いする。そして、まるで過去が繰り返されるかのような動作で、あひるはふぁきあの懐に入っていた。レッスン着に上着を羽織って出て行こうとするふぁきあに、一緒に入ってきた同級生らしい一人がいぶかしげに声をかけた。

「ふぁきあ?」
「何でもない」

振り返りもせずに答えて出て行くふぁきあに、それ以上余計な詮索をする人はいなかった。
 
 
 
 
  レッスン室の裏の林で、再びふぁきあは、あひるを地面に下ろした。あひるはふぁきあを見上げ、気まずそうな笑みを浮かべた。

「えーと。ごめん・・・」

ふぁきあはあひるをじっと見つめた後、いつかのように優しく笑った。

「・・・時間が逆戻りしたのかと思った」
「ああ、うん、そうだね。でもあの時はあたし、自分で更衣室に入り込んだんだけど、今日は違うよ。ネコに追いかけられちゃってさ」
「ネコ?」

ふぁきあが顔をしかめ、素早く周囲を見渡す。不穏な気配はもうあひるには感じられなかったが、ふぁきあは鋭い視線で執拗に辺りを探っていた。あひるは慌てて言った。

「うん、でもそれは大丈夫だったの。で、逃げてたら目の前で扉が開いて、気がついたら中に閉じ込められちゃってたんだよね。だから外に出ようとして頑張ったんだけど、出られなくて、そしたら誰か来ちゃって、逃げようって思ったらふぁきあのロッカーに気がついたもんで、つい・・・だからその・・・ごめん」
「・・・分かった。とりあえず着替えてくる。すぐ戻ってくるからここで待ってろ。動くなよ」
「うん」

ふぁきあはもう一度さっと周囲を確認してから、更衣室の方へ、上着を脱ぎながら足早に戻っていった。そのレッスン着姿の背中に、あひるは、さっき見たふぁきあの踊りを思い出した。

力強く、躍動感のある動き。的確で美しいサポート。そしてふぁきあの腕に支えられ、優雅なポーズをとっていた女の子・・・

自分には踊れないと分かっていても、あきらめきれず、つい体が動き始めてしまう。しかし鳥である上に支え手が無いので、本来の動きなどできない。それでもあひるは踊らずにいられなかった。・・・パートナーを失っても、一人で踊り続けた白鳥姫のように。
 
 
 
 
  ふぁきあはすぐに戻ってきた。しかしあひるの姿が目に入った瞬間、凍りついたように足が止まった。知らない人が見たらアヒルの雛がのたうっているようにしか見えなかっただろうが、彼にははっきりと分かった。

・・・『白鳥の湖』の終幕、夢に破れ、悲しみの中で踊るオデット。

届かない何かに手を差し伸べるように、広げた翼を懸命に差し出すあひる。まるで、一心不乱に王子を助けようとしていたあの頃のように。まるで白鳥の王子のもとに―みゅうとのもとに、行きたがっているように・・・

あひるが胸元の赤い石をきらめかせてターンし、ふぁきあに気づいた。

「あっ、ふぁきあ。早かったね」

いつもと同じ口調。いつもと同じ笑顔。その温もりに溶かされるように、ふっ、と体の呪縛が解けた。ぎこちなく足を動かし、あひるに歩み寄った。

「ふぁきあ?」

あひるが怪訝そうに見上げ、ふぁきあは、自分が顎を強張らせたままなのに気がついた。強いて口元を緩め、笑みのようなものを浮かべて見せる。しかし心は硬く凍りついたまま、軋んで悲鳴を上げていた。


 

 続き Fortsetzung

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