Stille Nacht 聖夜



 
また雪が降り始めた。

<まだかなぁ>

あひるはテーブルの端からぴょこりと椅子の上へ、それからばたばたと羽ばたいて窓枠へと飛び移り、心配そうに外を覗いた。まだお昼を過ぎてそんなにたってないはずだけど、雪雲に覆われた空はどんよりとして、もう既に、少し暗くなりかけているような気がする。

(今日も遅いのかな・・・)

このところふぁきあの帰りが遅くて、あひるは心配していた。この周囲には街灯も無く、ふぁきあはいつも真っ暗な中を帰ってくる。

(前はもっと早く帰ってきてくれてたと思うけど・・・それともお日様が沈むのが早くなったから?)

季節によって昼間の長さが違うという話をふぁきあがしてくれたのを思い出す。けれどそれであひるのお腹の空き方が変わるとも思えない。・・・別にお腹が空いたから早く帰ってきてほしいってわけじゃないけど。あひるは溜息をつき、再び頭をもたげて、寒々とした湖畔の景色に目をやった。

(今日は土曜日だから、授業は午前中で終わってるはずだよね)

二人で暮らし始めた最初のうちは、ふぁきあは本当にいつも一緒にいてくれた。学校が始まってからも、あひるがふぁきあの不在を気にする間もないうちに帰ってきてくれていた。でもいつのまにか・・・二ヶ月くらい前からだろうか?ふぁきあは家を空ける時間が長くなっていた―ちょっと前にあひるが一週間ほど寝込んだ時を除いて。土曜日も夕方遅くまで帰ってこなくなった。気になって一度尋ねてみたけれど、ふぁきあは話をはぐらかしてしまい、訊かれたくないのだとあひるは理解した。

(どこにいるんだろう?学校?)

だが、あひると違って優秀なふぁきあが居残りさせられているとも思えない。

(まさか・・・デート、とか?)

今まで思ってもみなかった考えが浮かび、あひるはわずかにうろたえたが、すぐに思い直した。

(まさか、ってこともないか。ふぁきあだし)

みゅうとがいた頃ですら、ふぁきあは女の子に人気があった。でも、あひるが愛していたのはみゅうとだけだったので―ぴけとりりえは何か誤解してたみたいだったけど―あひるは、ふぁきあがどうかということは気にもしてなかったし、今まで気にしたこともなかった。もっとも、みゅうとが人気があることだって、そういう意味で気にしたことはなかったんだけど。でも、ぴけもりりえもふぁきあはイケてると騒いでたし、たぶん、そうだったんだろうと思う・・・もっとも、りりえのはちょっと意味が違ってたかもしれない。

楽しかった日々を思い出してあひるの胸はかすかに痛んだ。もう戻れない世界の思い出は、もの寂しい気持ちを呼び起こしただけで、波立った心を鎮めるのには役立たなかった。

(やっぱりデートかなぁ・・・)

林檎の木の下で仲良く座っていたるうとみゅうとの姿が頭に浮かぶ。でもあれは暖かい春のこと。今この寒空の下で同じ事をしていると考えるのは、現実的でない気がする。

(でも、じゃあ、どこに・・・誰と?)

もやもやした気持ちで心が鬱いだ。あひるは溜息をつくと三たび頭を持ち上げ、少しずつ暗さを増しているように見える雪空を見上げた。

(まだかなぁ・・・迎えに行っちゃダメかな?)

ひと月ほど前までは、あひるは時々、帰ってくるふぁきあを途中まで出迎えに行っていた。ふぁきあはぶつぶつ言いながらも嬉しそうだったので、あひるはふぁきあの文句は無視していた。しかしあひるが体調を崩して以来、ふぁきあはあひるが一人で(一羽で)外に出ることを禁止していた。あひるはそれは盛大に文句を喚き立てたが、ふぁきあは「春になるまでダメだ」と言うばかりで、頑として聞き入れてくれなかった。こういう時ふぁきあが絶対に譲らないことは、みゅうとの時の経験から分かっていたし、ふぁきあがあひるのためを思って言っていることも理解していたので、あひるは結局あきらめ、渋々従っていた。・・・建前上は。実際にはふぁきあが留守の間にこっそり窓を開けて抜け出し、ちょこちょこ家の周りをうろついた。ふぁきあも気づいてはいるようだったが、短時間のことなのでそれくらいは大目に見てくれていた。

(よし、行ってみよう!見つかって怒られてもいいもん。ここで心配して待ってるより、ずっといい)

あひるは窓枠に嘴を突っ込んだ。
 
 
 

凍った土の上にうっすらと雪が積もってつるつると滑り、歩けないほどではないものの、快適な道程とは言い難かった。この調子では、小さなアヒルの脚で町までどのくらいかかるか、考えただけで気が滅入った。それでもあひるは引き返そうとは思わなかった。が、ちらりと頭を掠めるものがあった。

(人間の女の子だったら・・・)

あひるはぶるぶると頭を振った。吹きつける北風に柔らかな羽毛はほとんど役に立たず、肌に凍み込む寒さで身が竦む。広く温かい胸に飛び込むことだけを考えて、あひるはひたすら前進した。
 
 

あひるはいつもは町の門のところでふぁきあを待っていた。しかし今日のあひるはなぜか無謀な気分になっていて、ためらいなく門をくぐると、どんどん町の中に入って行った。だが、町に足を踏み入れてあひるは戸惑った。湖からここまでの道と違い、町の中にはほとんど雪は積もっていないし、風もあまり強くない。しかしあひるが驚いたのはそのことではなかった。

(町ごと魔法がかけられちゃったの?)

しばらく見ないうちに、町の様相が一変していた。ほとんどの建物の扉には、濃緑の細い葉がこんもりと繁る枝を円く輪にしてリボンや木の実で飾ったものが掲げられている。鳥の羽根があしらわれているものにしばらく目を止めていた後、あひるは再び歩き出した。

(ふぁきあの物語・・・ってわけじゃないみたいだし・・・)

通りに面した窓辺に、花や、鮮やかな色の葉の植物や、人形や、他にもきらきらした綺麗なものがたくさん並べられているのが、ガラス越しに見えた。外套の襟を立て、寒そうに首をすくめて行き交う人々の表情も、どこか楽しげに見える。

(なんだろう・・・お祭り?)

火祭りの夜の人々の雰囲気がちょうどこんな感じだったのをあひるは思い出した。

(・・・でも、ちょっと違う?)

女の子達が笑いさざめきながら足早に通り過ぎていき、それを見遣る人々の顔にも微笑が浮かんでいるのは同じだけれど、でも、あの時みたいに浮かれ騒ぐ感じじゃなくて、もっと心の奥底から光がこぼれ出してきているような・・・そう、みゅうとの心が宿っていたあのランプ、あの光によく似た温かな優しい光が溢れている。・・・あのランプはいつのまにか消えてしまい、ふぁきあが探してくれたけど見つからなかった・・・

あひるの足は、明るく幸せそうな人々の流れに引き寄せられるように、金冠学園の方ではなく教会通りへと向かっていた。
 
 

教会通りには、市の立つ日と同じようにずらりとテントが並び、人々で賑わっていた。ふと左手を振り返ると、市庁舎の前に青々と葉を繁らせた大きな木が立っているのが目に入った。さっきは人々の様子に気をとられていて、気づかずに通り過ぎてしまったらしい。その立派な木には、家々より更に華やかに、ほとんど飾りに埋もれてしまうほどにたくさんの色玉や蝋燭や天使の装飾などが施されていた。

(前には無かったよね?)

あひるは何か強い力に引っ張られるように、不思議な美しい大木にとことこと近づいていった。あひるの視線は、その木に取り付けられた色とりどりのきらびやかな飾りではなく、豊かで艶やかな張りのある濃緑の葉にぴったりと吸い寄せられていた。地面に向かって腕を広げた大きな枝の真下まで来て、あひるはじっと見上げた。その深みのある落ち着いた色合いに浸り、みずみずしい葉が放つ爽やかな薫りに包まれていると、どこか懐かしいような力強い安堵感を覚えた。
 
 
 

ふいに冷たい風が強く吹き抜け、ぼんやりと木を見つめていたあひるはぶるっと身を震わせた。どこからか芳ばしいおいしそうな匂いが漂ってきて、突然あひるは空腹を思い出し、周囲もよく見ずに回れ右をして駆け出した。

「ぐわっ!」
「こんなところで何をしている?」

突然首の後ろを掴まれてつまみ上げられ、ひしゃげた叫び声を上げたあひるは、続いて目の前に現れた顔に向かってぐわぐわと喚いた。

<あっ、あおとあ。びっくりした〜>
「もう少しで踏まれるところだったぞ」

自分が人波に突っ込んで踏まれかけていたことに気づいたあひるは、忙しなく行き交う人々を見回し、ちょっと照れ笑いした。

<えーと・・・ありがと>
「僕は別に君がのしアヒルになろうがどうしようがどうでもいいが、君に何かあると、紡ぐ者であるふぁきあに与える影響が甚大だからな」

片手でメガネを押し上げながら言うあおとあに向かって、あひるは分かっていると言いたげにこくこくと頷いた。

(なんだかんだ言っても、本当は面倒見がいいんだよね、あおとあは)

ふぁきあがドロッセルマイヤーの物語を終わらせるために闘っていた時、あおとあがふぁきあとうずらのためにどれほどかいがいしく献身的に働いたか、あひるは知らなかったが、あひるは、彼自身も気づいていない世話焼きの性とでもいうべきものを、本能的に嗅ぎつけていた。

<そういうとこは、ふぁきあとちょっと似てるよね>
「そういえばふぁきあはどうした?」

あおとあは周囲をぐるりと見回しつつ尋ねた。

<あっ、そだ、あおとあ、ふぁきあ知らない?あたし迎えに来たんだけど、どこにいるか分かんないし、それに町に入ってきたらなんかいつもと雰囲気が違うからどうしたのかなって・・・>

ぶら下げていたあひるを脇に抱え直しながら、あおとあはぶつぶつと呟いた。

「・・・まあ、近くにいたなら、君をこんなところにほったらかしてたりはしないだろうが・・・」

あおとあは鳥が苦手ならしく、最初のうちは決してあひるに触ろうとしなかったが、最近は慣れてきたのか、必要に応じてあひるを抱き上げることもできるようになっていた。もっとも普段はふぁきあが一緒なので、余程のこと―暴走したあひるがテーブルから落ちかけるとか―が無い限り、そんな機会はなかったが。

<うわぁ>

地面を歩いていた時にはひたすら人の多さとずらりと立ち並んだテントだけが目についたが、抱き上げてもらうと、それらのテントやその背後の店にはそれぞれ様々な品が並べられていて、時々人々が足を止めて覗いたりしているのがよく分かった。辺りが少し薄暗くなってきたせいか、吊るされた裸電球の明かりで、その一帯だけがまぶしく輝いているように感じる。いい匂いがしていたのは焼き菓子らしい。ふんわり湯気の立つ赤紫色の飲み物を売っている店もあった。夕方が近いということもあって多くは店を畳みかけていたのだが、あひるには壮観さと賑やかさだけが印象に残った。

「ふぁきあに内緒でクリスマス市を見物に来たというところか」
<クリスマス?>

初めて聞く単語にあひるは首を傾げた。あひるが身じろぎしたのであおとあはあひるを見下ろし、不思議そうに見上げるあひると目が合った。

「そうか、君はクリスマスは初めてなんだな。ふぁきあから聞いてないのか?クリスマスというのは・・・神様の誕生日だ。皆でそれをお祝いする」

あおとあは、あひるに分かりやすいように適当に端折って説明した。

「くわぁ」

あひるが感心したように声を上げ、あおとあは一応通じたらしいと認識して頷いた。大きな包みを抱えた人が通り過ぎ、あひるは興味を惹かれてその後を目で追った。あおとあはそれに気づいたのかどうか。

「クリスマスには親しい人に愛を込めて贈り物をするんだ。家族とか・・・」
(・・・恋人とか)

あおとあの心に忘れられない面影がよぎる。突然始まって、あっという間に終わってしまった恋。

(彼女に贈るなら、真紅のバラと・・・)

考えかけて苦笑した。

(無駄なことを。彼女はあらゆるものを王子から贈られているに違いない)
 
 

あおとあが一人感傷に浸っている間、あひるはあひるで考え込んでいた。

(親しい人・・・って、ふぁきあだよね)

目の前のあおとあのことはちらっとも頭に浮かばなかったが、それはあおとあとて同じことだったので、お互い様だった。

(愛を込めて・・・?)

かあっと赤くなって両手―両翼だが―を頬に当てる。

(ででででも、ほら、親愛とか友愛とかもあるし、あおとあだって家族とかに贈るって言ってたし・・・)

自分で自分に言い訳して、なぜか一度がっくりと落ち込んだ。しかしすぐに気を取り直し、あひるは改めて考えた。

(ふぁきあに何か贈りたい。でも何を?)

あひるは道の両脇に連なる華やかな店先を眺め回した。そこには綺麗な物や可愛らしい物、珍しい物、それにおいしそうな物が溢れていた。しかし、少女の姿を持っていた頃と違い、それらの一つでも買うことはできない。

(あたし、ただのアヒルだし・・・あたしに何ができるの?)

「劇場に行く途中の広場は、もっと店が多くて賑やかだ。そちらも見に行くか?」

頭上であおとあの声がした。どうやらあおとあは覚悟を決めてあひるのお守りをすることにしたらしい。あおとあを見上げて曖昧に頷きかけた時、懐かしい響きが耳に入り、あひるははっと音のする方に目を向けた。もちろん、もうここには居るはずが無いし、メロディーも違う。でも、天から星がこぼれ落ちてくるような軽やかで澄んだ響きは、あひるの心を強く捉えた。あひるの目は、ある一つの店に釘付けになった。
 
 
 

「うちで食べていかないのかい?」

答えは分かっていたが、カロンは一応訊いてみた。ふぁきあは外套を羽織りながら、ほとんど上の空で答えた。

「ああ」

カロンはわずかに寂しげに笑みを浮かべた。やはり、ふぁきあにとってクリスマスイブに一緒に食事を摂る家族はもう自分ではないのだなと思うと少し残念な気もしたが、それもふぁきあの成長の証と思うことにした。

「今夜のミサは・・・」

足早に戸口に向かうふぁきあの背中に声をかけたが、ふぁきあは気もそぞろで、全く耳に入っていない様子だった。カロンは軽く溜息をついてあきらめた。ふぁきあは子供の頃から他の子とは違っていた。ふぁきあを信じて、見守ってやろう。扉に手を掛けたふぁきあがふと振り返った。

「本当に助かったよ。どうもありがとう、カロン」
「明日はうちに来るんだろう?」
「ああ、うん、そうする。じゃあ」

そわそわと答えて出て行くふぁきあを、カロンは優しい眼差しで見送った。
 
 
 

ふぁきあは冷気が入り込まないように素早く扉を閉め、踊るような軽い足取りで通りに歩み出た。そのまま石畳を蹴って小走りに走り出した自分に気づき、慌てて足を緩めた。逸る気持ちを抑えて、足早に、暗くなりかけた家路を急ぐ。小雪混じりの冷たい風が肌を刺すけれど、心が高揚していて気にならない。外套の右のポケットに入れた小さな箱に手をしのばせる。・・・特別な人への、特別な贈り物。

(え!?)

凍った道に足を取られ、どきりと跳ねた心臓を左手で押さえて立ち止まった。

(いや、違う、これは・・・これはただのクリスマスの贈り物だ)

頭の片隅で何かが引っ掛かった気がしたが、すぐに消えた。ふぁきあはニ、三回冷たい空気を深呼吸してまだ高鳴っている動悸を落ち着かせ、注意深く足を踏み出した。
 
 

町が秋の色に染まり始めていた頃、ふぁきあはある店の窓辺にこれを見つけ、目を疑った。あまりにも似ていて、とても信じられなかった。胸がドキドキした。どうしても欲しくて、そして必ず手に入れなければと思った。それは、その店に並んでいる他の物に比べればさして高価なものではなかったが、それでも学生の身では簡単に手が出せるようなものではなかった。ふぁきあは店の主人に頼み込んでそれを取り置いてもらい、三ヶ月近くの間、あひるの看病に掛かり切りになっていた一週間を除いて毎日、学校が終わった後、町の中の幾つかの店で働き、そして今日、やっと手に入れた。本当はもっと早く手にできるはずだったが、仕事を休んだ分、遅くなり、それでもなんとか今日に間に合った。それをカロンのところに持ち込み、贈る相手に合うように加工してもらった―時間や加工賃を節約するためと言うより、贈る相手が特殊だったので店には頼めなかったから。カロンは何も言わずにふぁきあの頼みをきいてくれた。
 
 

(喜んでくれるだろうか・・・)

込み上げる期待と不安を抑えきれない。ふと先日の告白まがいの一件を思い出し、一気に不安の度合が増した。

(でもこれはクリスマスプレゼントだから・・・別に特別な意味合いがあるわけじゃない)

心の奥で疼く何かを無視し、先を急いだ。家に帰る時はいつも急ぎ足になるけれど、今日は今にも走り出しそうだ。遂に、こんなに寒いのだから走っていたっておかしくない、と自分に言い訳して、ふぁきあは駆け出した。
 
 
 

けれど、息を切らして辿りついた家には、誰も居なかった。


 

 続き Fortsetzung

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