コツコツと、木の扉を小さな硬いものでつつく音がする。ふぁきあは扉に飛びついた。

「お前!今までどこ行って・・・」

そこで言葉を飲み込んだ。あひるはいつも開く扉を避けて入口の脇に立っているが、そこにあひるの姿は無く、代わりに、少し下がった泥混じりの雪の上に立つ、見覚えのある制服の靴があった。顔を上げると、あまり会いたくない人物の腕にあひるが抱かれていた。

「・・・あひる・・・」

それだけ言って絶句した。

<あれっ、ふぁきあも今帰ってきたところ?>

屈託なくアヒル声で言われ、ふぁきあが自分を見下ろすと、確かに外套を着込んだまま。だがそれは、帰ってきてあひるがいないのに気づき、そのまま外に飛び出したためだ。ふぁきあは湖の周囲から林の奥の方まで心当たりを必死に捜し回ったが、こんな寒い中、既に日も暮れようというのにどこに行ったのか、あひるを見つけることはできなかった。薄く積もった雪に反射する幽かな光のおかげで、辺りはまだうっすらと明るさが保たれてはいるが、じきに真っ暗になってしまうだろう。ふぁきあは岸辺に生えた一本の樹の根につまずいてよろめき、とっさに片手をその幹に伸ばして体を支えると、そのまま倒れ込むように凭れかかり、白い息を吐いた。

いくらあひるでも、こんな時間まで訳も無く外でふらふらしているとは思えない。おなかも空いているはずだし・・・胸の底でちらちらと燻っていた不安がにわかに噴き上がり、目の前を黒雲が覆う。

(・・・まさか、あひるの身に何か・・・?)

ふぁきあは拳を、手袋が裂けそうなほど激しく樹の幹に叩きつけた。細い葉に薄く載っていた雪が薄闇の中をはらはらと舞い落ちる。こんなことなら、窓を打ち付けてしまえば良かった。顔を上げて、数十メートル離れた湖畔の家に目を遣り、ふと、もしかしたらもう帰っているのではないかとほのかな期待が浮かぶ。考える前に足が動いて家に駆け戻り、また家中捜し回った・・・と言っても、部屋が3つだけの小さな家だから、たいして捜す場所があるわけでもないが。そしてあひるがどこにもいないという現実に混乱し、再び当ても無く飛び出そうとして、テーブルに出したままの筆記用具に目が止まった。

(もしかして・・・)

物語を書いて呼び戻すことができるだろうか?あの時のように・・・

(どこにいるかは分からないが・・・声が届けば・・・)

あひるの行動を縛るようで、あれ以来一度もそんなことはしたことがなかった。

(だが他に手が無いなら・・・そうだ、それに、またドロッセルマイヤーがあいつにちょっかいを出してきたということも有り得る)

その可能性が低いことは分かっていたが、ふぁきあは理性的な判断ができなくなっていた。ふらりとテーブルに歩み寄りかけた時、扉をつつく音がして・・・
 
 

「これは・・・いや、俺のことはどうでもいい。そんなことよりお前、こんな遅くまでどこに行ってた?とっくに日が暮れて、こんなに寒くなってるっていうのに」

半分八つ当たりだと自覚しつつ、きつい声音になるのを止められなかった。

<・・・ごめん・・・>

あおとあは腕の中でうなだれたあひるを見下ろしてから、やれやれと言わんばかりに眉を上げた。

「まるっきり、口やかましい保護者だな。彼女は心を失くした王子でもなければ、守られるだけのプリンセスでもないだろうに」

ふぁきあはあおとあを冷ややかに一瞥しただけで、返事はしなかった。

<ふぁきあが言ったのはそういう意味じゃないよ。あたしを心配してた、ってことなの>

あおとあには通じないと知りつつ、あひるはふぁきあをかばった。ぐわぐわと声高に訴えるあひるの意図だけは通じたらしく、あおとあは肩をすくめた。あおとあが入口の踏み段にゆっくりと足を掛け、あひるを持ち替えてふぁきあに渡そうとするのももどかしく、ふぁきあはあおとあの腕からあひるをひったくるように抱き取った。そのまま中に入ってしまおうとするふぁきあの背後から声が追ってきた。

「この寒い中、ここまで来てやったというのに、もてなしもせずに追い返すつもりか?」

ふぁきあはじろりとあおとあを睨み返した。

「・・・寄っていくか?」

とっとと帰れ、としか聞こえない口調でふぁきあは答えた。が、一応誘いを引き出したことであおとあは満足した。

「いや、結構。今日という日にこんな所で時間を潰してるほど、僕も暇じゃないのでね。プリンセスを送って来ただけだ。荷物もあったからな」

そういって掌に載るほどの小さな箱をずいと差し出した。安っぽい赤いビロード張りの箱の側面からは回し手の金具がちょこんと飛び出ていた。

「なんだ?」
<『オルゴール』だよ>
「オルゴールだ」

ふぁきあの眉間に不機嫌そうな深い皺が寄った。ふぁきあはあひるには視線を向けず、あおとあを睨んだ。

「それは見れば分かる。これは何のつもりだ?」
「さっきクリスマス市で彼女のために買った。クリスマスプレゼントさ」

あおとあはさらりと答えて含み笑いをした。ふぁきあの表情にあからさまに不快さが浮かんだ。しかしあおとあは箱をふぁきあの手に押し付け、澄ました顔であひるにお辞儀した。

「それでは御機嫌よろしゅう、姫君」
<ありがと、あおとあ!>

生き生きと目を輝かせてあおとあを見上げるあひるに、ふぁきあは顔を顰めた。あおとあが去りがてらに戸口の上部を覗き込むように見上げ、ふぁきあに向かって意味ありげに口の端を引き上げた。

「この家にはヤドリギは飾ってないんだな」

ふぁきあは自分の体であひるを覆い隠すように無言で背を向け、後ろ手で、あおとあの鼻先に叩きつけるように大きな音を立てて扉を閉めた。
 
 
 

<ヤドリギ?>

あひるが小首を傾げてふぁきあを見上げ、大きな瞳をくるりとさせた。

「なんでもない。くだらない話だ。気にするな」

ふぁきあは視線を外して、机の上にあひるとオルゴールを降ろした。外套を脱いで壁に掛けながら、後ろ向きのままあひるに尋ねた。

「ずっとあおとあと一緒にいたのか?」

つい神経質な声になってしまうが、あひるは気づいていないらしい。

<え?えーっと、うん、まあ、そうかな>

その返事の歯切れの悪さがまた気に障ったが、追求すると尚更不愉快になりそうだったので聞き流した。やけに明るい声であひるが付け足した。

<だからね、一人じゃなかったから、心配しなくても大丈夫だよ>

余計悪い。と思ったが、そんなことは言えなかった。

「そうか」

暖炉に手早く火を入れていると、あひるが屈託無く言った。

<あおとあって、いい人だね>
「いい人?」

思わず声を尖らせ、振り返ってあひるを見た。よく見ると羽の下に小さな白い造花のリース―たぶんツリーか何かに付ける飾りだ―を抱えている。・・・これもあおとあから貰ったのか?胸に不快な疼きが走り、苛々した。

<うん、今日もね、いっぱい親切にしてもらったよ。プレゼントももらっちゃったし、それに・・・>

あひるは途中で言葉を切った。持っていた花輪を嘴と両翼で押し上げ、トレードマークの跳ねた冠羽に器用にくぐらせて、少し頭の後ろ側へ傾けるような形で被る。

<どう?かわいく見える?>

ふぁきあは答えに詰まった。

<ふぁきあ?>

あひるが心配そうに首を傾げるのを見て、慌てて返事した。

「あ・・・あ。かわいい」

あひるの嬉しそうな笑顔が、花の棘のように心に刺さった。

<お姫様みたいに?>
「・・・そうだな」

自分で言っていてむかつく。黄色い羽根の色に白い花冠が似合っていてかわいいのは本当だけれど、似合っているからこそ気に入らない。

(みゅうとを好きだったくせに・・・)

心の中で毒づいた。

(・・・なんで、あおとあなんかがいいんだよ!)

それは厳密には正しくなかった。重要だったのは―ふぁきあはいまや、自分の気持ちを直視せざるを得なかった―なぜ自分ではなく、他の男なのか、ということだったから。
 
 

しかし考えてみれば、あひるを女の子扱いするのはあおとあだけ。他の人にとってはただのアヒルだし、ふぁきあ自身はと言うと・・・よく分からない。あひるがかけがえの無い存在であることは認識していたが、あひるに対しては、『あひるに接するように』接していたとしか言えない。一緒に食事したり、抱いて運んだりするのも、どちらかといえば保護者としてのそれで、あおとあがあひるに対して見せる気遣いとは違った気がする。少なくとも言葉でそれらしいことを表したり、贈り物をしたりしたことはなかった・・・今日までは。外套のポケットに入ったままの小箱を、情けない気持ちで見やる。みゅうとならともかく、よりにもよってあおとあなどに先を越されて、これを今更どんな顔で渡せというのだろう?
 
 

暗い、というよりは泣きそうな顔になったふぁきあを、あひるは心配そうに覗き込んだ。

<ふぁきあ・・・どうかした?なんかあったの?>

ふぁきあははっと我に返り、何気ないふうを装って話を変えた。

「そうだ、飯にしようか。腹減ってるだろ。今日は・・・」
<あっ、ちょっと待って>

ささやかな台所に向かいかけたふぁきあをあひるが呼び止めた。振り返ると、あひるが期待に満ちた眼差しで見上げていた。あひるは嘴の先でオルゴールをつつきながらふぁきあに頼んだ。

<これ、鳴らしてくれる?>

悲鳴のような音を立てて心が軋むのが聞こえた気がした。

(そんなにこのプレゼントが嬉しかったのか?俺と食事するよりも先に聴きたいほど?)
「・・・分かった」

後にしろと言ってやりたかった。それでもふぁきあはあひるの願いを聞き入れた。そうするしかなかった。なけなしのプライドのために。そして、あひるが喜ぶならどんなことでもやってやりたいと思ってしまう、自らの想いゆえに。
 
 

惨めだった。あひるは他の男の贈り物に有頂天になっている。「友達」であり「家族」である自分は、それに不満を示すことも、それを妨げることもできない。そしてふぁきあ自身は、心を込めて用意した贈り物を渡すことさえできない。それが、危険を冒し、傷つきながらも物語を終わらせた代償に得た繋がりだというなら、あまりにも残酷だった。いや、思い切って渡してもいい。あひるはたぶん、きっと、喜んで受け取ってくれるだろう。しかしここに至ってふぁきあははっきり気づいていた。自分はあひるに、自分の贈り物を、特別な意味を持つ『印』として受け取ってもらいたかったのだということに。自分はあひるの『特別な存在』になりたかったのだということに。
 
 

ふぁきあは辛うじて無表情を装い、その小さな箱に手を伸ばした。箱に貼られたビロードの柔らかな手触りも、ふぁきあを慰めはしなかった。側面に付いた小さなネジをいっぱいに巻き、ジリジリとシリンダーが回り始める音を聞きながらテーブルに下ろす。ことり、と置かれると同時に音楽が流れ出した。

(あ・・・)

それは『くるみ割り人形』の<花のワルツ>だった。聴き慣れたメロディーに、少しだけ心が和む。と思った途端に、ふぁきあは信じられないものを見た。あひるがふぁきあに向かって丁寧にレヴェランスし、そして踊り始めたのだ。
 
 

最初ふぁきあはそれが自分に向けられているとは思っていなかった。しかし、繰り返されるメロディーに乗せて一生懸命に踊り続けるあひるを見ているうちに、ふぁきあの心はあの時に戻っていた。二人の願いを叶えるために心を重ね合わせ、離れていながらも一つの存在として、祈り、信じた、あの忘れられない時・・・そして突然ふぁきあは気づいた。あひるは今、自分のために踊ってくれている。そしてあひるもあの時を忘れてはいない。自分達の絆は特別だと感じてくれているのだと。
 
 

オルゴールはまだ鳴っていたが、ふぁきあは素早く手を伸ばしてあひるを両手で掬い上げた。
 
 

<えっ、あの、ふぁきあ?>

急にリフトされたような体勢になり、どきどきして慌てふためくあひるに、ふぁきあは、その暗緑色の瞳に優しい光を湛えて穏やかに微笑んだ。

「ありがとう」

大好きな笑顔にあひるは蕩けそうな心地になりながら、恥ずかしげに尋ねた。

<まだ終わってなかったんだけど・・・見てられないくらいひどかった?>

ふぁきあはあひるをそっと机の上に下ろし、さりげなく花輪を取り去ってあひるの頭を撫でた。

「そうでもないさ。お前の気持ちは伝わった。でも、倒れるまで踊らせたくはないからな」

からかうように言われてあひるは赤面した。ふぁきあがあの時のことを言っているのはすぐに分かった。

<そ、そう?えーと・・・ありがと>

曲がだんだんゆっくりになり、やがて止まった。ふいにふぁきあが真面目な顔で尋いた。

「なんで踊ってくれたんだ?」
<えっとね、あおとあに聞いたの。今夜はクリスマスって言って、神様の誕生日で、親しい人に贈り物をするんだって>

『愛を込めて』の部分は気恥ずかしくて言えなかった。

<あたしの親しい人はふぁきあだから、ふぁきあになんか贈り物しなきゃ、って思って。あたしにできることって、やっぱりこれしかないから・・・>
「そうか」
 
 

ふぁきあは頬が緩むのを抑えられなかった。あおとあに聞いたというのは気に入らないが、『親しい人』と言われた時に自分を思い浮かべてくれたのが嬉しい。その時ふと心にひっかかるものに気づく。訊くべきではないかも知れないと思ったが、ふぁきあの口は勝手に動いていた。

「あおとあにも何か贈ったのか?」
<え?ううん>

あひるはきょとんとふぁきあを見返し、それからふと心配そうに顔を曇らせた。

<そっか、あおとあにもなんか贈らなきゃいけなかったのかな?でもあおとあのこと、『親しい人』って思ってなかったから・・・>

ふぁきあは笑いがこぼれそうになるのをやっとの思いで噛み殺した。

「じゃあ別にいいんじゃないか。気にしなくて」
<うん、そうだよね>

あひるは素直に納得したようだった。ふぁきあは解放された気分だった。大声で叫び出したい。今ならどんな願いも叶う気がする。勇気が甦った。

「実は俺も・・・渡したいものがあるんだ」

ふぁきあはいそいそとテーブルを周って外套に近づき、ポケットに手を突っ込んでそれを掴み出した。その手を一度胸に当て、一瞬祈るように俯いた後、すぐに振り返り、足早に戻って来て、握っていたものをテーブルに載せた。銀糸の入った白いリボンをかけられた、水色の小さな箱。
 
 

<これ・・・>

あひるは目をいっぱいに見開いてふぁきあを見上げた。

<あたしにくれるの?クリスマスプレゼント?>
「ああ」

ふぁきあが頬を染めて短く答えるのを聞いて、あひるは躍る心のままに両翼を羽ばたかせた。

(じゃあ、ふぁきあの愛が籠もってるんだ!)

嬉しい!どんな愛かとか、気にならないくらい、とにかく嬉しい。自分がふぁきあのことを想って贈り物をしたのと同じように、ふぁきあも自分のことを想ってくれたのかもしれない。そう思っただけで、もう一度踊りだしたくなる。あひるはわくわくしながらその箱の周りをぐるぐる回った。でもあひるには開けられそうにない。あひるはふぁきあを見上げた。

<開けて?>
 
 

首を傾げて自分を見上げるあひるの可愛らしい仕草にふぁきあは微笑んだ。リボンを解いて箱を開け、中のものを取り出す。しゃら、と軽い鎖の音がして、あひるの目の前に、丸みを帯びた赤い石が下げられた。

<これ・・・>

あひるは言葉を失った。
 
 

「そっくりだろ?俺も驚いた。おまえに似合ってたよな、って思って・・・あひる?どうした?」

石を見つめたままぽろぽろ涙をこぼすあひるに、ふぁきあは動揺し、急いでペンダントを引っ込めようとした。

「悪かった、あひる、俺、お前を悲しませるつもりじゃ・・・」

途端にあひるがふぁきあの手に向かって突進してきた。

「えっ?!」

ふぁきあの手から垂れていた鎖の中に首を突っ込み、そのまま机から落ちかける。

「わっ、バカっ」

ふぁきあは慌てて鎖を離して両手を差し伸べ、膝の上に抱え込むようにしてあひるを受け止めた。

「何やってる!!」

あひるはふぁきあの腕の中ですすり泣いていた。

<・・・ありがと・・・>
「え・・・」

呆然として言葉の出ないふぁきあを見上げ、青く澄んだ瞳を潤ませてあひるは繰り返した。

<ありがと、ふぁきあ・・・ありがと・・・>
「あひる・・・」

あひるの気持ちがまっすぐふぁきあに届いた。ふぁきあはおずおずとあひるを胸元に抱き寄せ、柔らかな体をそっと愛しげに撫でた。
 
 
 

嬉しそうに鏡の前を行ったり来たりするあひるの様子を、ふぁきあは満たされた心地で見守っていた。

「気に入ったか?」
<もちろんだよ!>

ふぁきあの蕩けそうな笑顔を見て、あひるは嬉しくて、思ったことをつい口に出してしまった。

<これつけてるとまるで・・・>

あひるは赤い石を見つめて一瞬言葉を切った。

「ん?」

わずかに首を傾げたふぁきあを笑顔で見上げた。

<・・・またみゅうとやるうちゃんに会えそうな気がするよ!>

あひるは本当に嬉しそうにそう言った。けれど、ふぁきあはその言葉に衝撃を受け、浮かれていた熱が一気に醒めた。自分がどれほどあひるのことを考え、あひるを喜ばせようとしたところで、所詮は代用品に過ぎない。あひるの本当の望みは・・・

「・・・そうか」

心が引き裂かれる痛みで悲鳴が洩れそうだった。しかしふぁきあはそれを押し隠し、静かに笑った。あひるは幸せそうににっこり微笑み返してくれた。
 
 
 

実はあひるが言おうとしたのは別のことだった。けれどふぁきあに余計な心配をかけまいとしたのが裏目に出た。しかし、そんなことはあひるには分からなかった。
 
 
 

希望と幸福を湛えて輝くあひるの笑顔を見ながら、ふぁきあは胸が締め付けられるのを感じていた。それが喜びなのか哀しみなのか、ふぁきあにも分からなかった。


 

 続き Fortsetzung

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