Wiedersehen 再会
幻だ。
きっとあの、クリスマスの砂糖菓子のように甘ったるい二人・・・ではなく、一人と一羽を、ずっと見ていたせいで、精神が毒されてしまったに違いない。でなければ件の二人―ではなく、一人と一羽―の救い難い優柔さに、つい、もし自分だったらと考えてしまったのかもしれない。いずれにせよ、彼女が現実に―この金冠町にいるはずがない。
粉雪交じりの風が吹きつけ、慌てて片手をかざして眼鏡をかばった。実用的なぶ厚いコートの下で、心臓がドキドキと高鳴っている。乱れた前髪をそわそわと撫で付け、眼鏡を指で押し上げてから、もう一度通りの先を見やった。
美しい。ドレープをたっぷりとった純白のコートは、何かを探すように辺りを見回しながら歩む彼女の動きにつれて優雅に揺れ、寒々とした街並みの中で、高貴なマドンナ・リリーの如き輝きを放っている。さっきまで降っていた雪は今は止み、薄い陽射しが、その姿の上に柔らかく降り注いでいる。整った魅惑的な顔を縁取る漆黒の巻き毛が白いフードからのぞき、赤みを帯びた楓樹色の大きな瞳が―ふいに振り向き、心臓が跳ね上がった。妖艶な眉がわずかに上がり、あら、というように可憐な唇が動く。思わずごくりと唾を飲み、咳払いした。
「君は・・・」
「そこのあなた、アヒルを連れた変な男を見かけなかった?」
「は?」一瞬呆然としたが、すぐに気を取り直した。
「ふぁきあのことか?」
尋ねるまでもない気もするが、一応訊いておいても悪くはないだろう。
「ええ、そうよ。・・・知り合いなの?」
「まあ、そうだ」友人だとは思っていないが―おそらくふぁきあの方もそうは思っていまい―知り合いという程度なら、まず、許容範囲だろう。彼女がふと柳眉を寄せた。
「もしかして・・・」
「何か?」
「・・・いえ、何でもないわ。それで、ふぁきあは今どこにいるのかしら。もしかしたら御存じない?」知るも知らないも、ついさっきまで一緒にお茶を飲んでいた。
「彼らはカロンの家にいる」
「・・・そうよね。今日はクリスマスですもの」なぜ彼女は気が引けたような表情をするのだろう?
「まだしばらくはあそこにいるだろう。訪ねてみては?」
「そうね・・・」
「何なら僕が案内するが」ぜひ。彼女と歩く機会など、もう二度と無いかもしれない。たとえ、さっき出てきたばかりの所へまた逆戻りすることになるとしても・・・
「いいえ。結構よ」
「いや、しかし」
「それよりあなた、少し時間はある?これからどこかに行くところ?」
「え?」面食らったせいで、考えもせずにバカ正直に答えていた。
「僕はそろそろ家に帰ろうと・・・」
「では、仕方がないわね」なめらかにきびすを返した後姿に慌てて呼びかける。
「だが別に急いではいない」
まぶしい美貌が振り返り、つややかな笑みを浮かべた。
「来て」
・・・何故、学校なのか?まあ、ここに来ること自体は、不思議ではないかもしれない。ここは彼女にとって、馴れ親しんだ、想い出深い場所だろうから。しかし彼女は、ふぁきあ達を探していたのでは?
はっ、と、後れを取っていたことに気づき、凍った道をおそるおそる小走りに、噴水の脇を過ぎる。
「待っ・・・」
・・・てよ、るう、と言いかけて、口をつぐんだ。
あまりにも違っている。今の状況は・・・あの時とは。
「ひと気が無いわね」
楕円の額縁状に雪の張り付いた大きな窓に、柔らかそうな黒い手袋を嵌めた手を当て、彼女は真っ暗なレッスン室を覗き込んでいる。よく磨き込まれたガラスが―たぶん、今でも誰かが『罰の掃除当番』で磨いているのだろう―うっすらと白く曇った。
「今日から冬休みで、誰も来ないから」
言わずもがなのことを言ってしまい、胸の内で舌打ちする。だが彼女は視線も動かさずにうなずいた。
「ふうん。そういうことになったのね」
「?普通はそういうものだろう?」そう口にしてからはたと考えた。果たして以前からそうだっただろうか?去年のクリスマスは?その前は?
「・・・ふぁきあはちゃんと仕事をしているようね・・・」
聞こえるか、聞こえないかというほどの小声で彼女がつぶやく。
「まさか、ふぁ・・・」
「ありがとう。付き合ってくださって」彼女がくるりと振り返ってにっこり笑ったために、言いかけていたことは尻切れとんぼに終わった。
「いや、このぐらい、お安い御用だ」
君のためなら命を捨ててもいいと思っていたくらいなのだから。
こうして再会してみると、あの時感じた気持ちが『物語が決めたこと』ではなかったというのがよく分かる。
生まれて初めて、自分を理解してくれる人に出会ったと思った。それが己だけの思い込みに過ぎなかったことも今では知っているが、あの時の感動と、胸に湧き上がった想いは、やはり作り物ではなかった。思えばあの時初めて、本当の意味で―観察対象としてではなく―他人に興味を持ち、その人を案じ、その人のために何かをしたいという気持ちを知った。そして、付け加えるならば、それ以来そういう気持ちにはなっていない。
もし、これが束の間の幻で、二度とは戻らない夢の名残りなのだとしても、できれば君のために何か・・・「あなたはもういいわ」
「はっ?」彼女がしなやかな小首をかしげ、さらりと言う。
「そろそろ帰らないといけないんでしょう?」
「いや、それは・・・」うろたえて泳がせた目に、暗がりの奥のピアノが飛び込んできた。
「そうだ。せっかく来たのだから、中に入って、少し練習していっては?」
「なんですって?」しまった。ちょっと押し付けがましかったか?
「いや、その、僕が伴奏をするから・・・」
まじまじと見つめられて、居心地の悪さに身じろぎした。
「君は僕のことを忘れているかもしれないが、いや、たぶん忘れているだろうが、僕はピアノ科の生徒で・・・」
「忘れてはいないわ。あなたを忘れるはずがないでしょう」
「えっ?!」
「あなたの方こそ、私のことを覚えているの?」
「それは、もちろん・・・」
「私のことを覚えてる人がいるなんて・・・」腹立たしそうに眉をひそめられ、複雑な気分になった。
「ちょっとは見直してたのに、やっぱりあのバカ男・・・」
その評価には同意するが、そんな言葉遣いは君にふさわしくない。
「かばうわけではないが、ふぁきあは、非力なりに努力していると思う。その努力だけは認めてやってもいいのではないかな」
「あなた・・・どこまで知ってるの?」
「何もかも、全てさ」正確には『ほとんど全て』と言うべきなのだろうが、まあいいだろう。
「僕が記憶を取り戻したことも、ふぁきあの落ち度とばかりは言えない。むしろきっと僕が特別な存在だということの証なのだよ」
控えめな言い方にしたつもりだが、内心、かなり自負を覚えていた。なのになぜ彼女は、笑いをこらえるように唇を引きつらせているのか?
「変わらないものもあるのね。そう」
何が『そう』なのか分からないが、何にせよ僕は特別だと認めてもらえたようだ。レッスン室の窓から離れて歩き始めた彼女の後について、歩きながら話しかける。
「では、君は、本当に、僕のことを覚えていてくれたんだ」
「ええ、もちろん。だってあなたは、私を愛していると言ってくれた初めての人だもの」どきん、と心臓が跳ね、拳を口元に当てて咳払いした。
「そ、それで君はなぜこっちに・・・そうか、金冠町の様子を見に?つまり、あれから何が変わって、何が変わっていないかを確かめに?」
覗きこんだ横顔から、掌の雪が溶けるように笑みが消えるのが見えた。
「いいえ、そうじゃないわ・・・それともそうなのかしら・・・」
その時になって、彼女がふぁきあ達を探していたことを思い出した。
「そうか、では、新しい物語が心配だったから?ふぁきあが紡ぐ者の使命を間違いなく果たしているか、確認しに来たのか?任せてくれ、ふぁきあ達の監視は怠りなく・・・」
「そういうわけじゃないの。心配はしていないし、干渉するつもりもないわ。ただ・・・気晴らしになるかと思って」気晴らし?いつまでも幸せに暮らすはずの物語のプリンセスが?
はっ、と、急き込んで尋ねた。「まさか向こうで何か嫌な目に遭っているのか?いじめられているとか?」
「まさか!」急に振り向いた彼女の勢いに気おされて、思わず足が止まった。彼女はすぐに向き直り、再びさっさと歩き始めたので、慌てて後を追う。
「みんなとても親切よ。まだカラスの血が残ってるかもしれないプリンセスなのに、とても私を愛してくれて・・・一度だって嫌な思いをしたことはないわ。ただ・・・」
「ただ?」
「・・・いいえ」いつの間にか裏の東屋のところまで来ていた。まっさらな雪についた彼女の足跡に、周囲のトウヒの枝から風に飛ばされてきた銀の粉雪がきらきらと降りかかる。その上を踏むことはなんとなくためらわれ、その脇を歩いて後を追った。東屋の手前で彼女は立ち止まり、ため息をついた。