「やあ」
「・・・ああ」

またかと顔を顰めながら、ふぁきあは招かれざる客を家に入れた。紙束とインク壷、それに白い羽を軸にしたペンが並んだテーブルの上で、小さな黄色い翼が羽ばたいた。

<あっ、あおとあ。いらっしゃい!>
 
 
 

ふぁきあとあひるは、城壁の外、町の北西にある湖の畔で暮らしていた。外といっても教会の塔が見えるくらいだし、学園まで歩いて15分もかからないからたいした距離ではない。ダメだと言われたら物語の力を使ってでもそうするつもりだったが、ふぁきあへの信用なのか、物語の余韻なのか、保護者も学校も鷹揚な対応をしてくれたので、ふぁきあは罪悪感なく欲しいものを手に入れることができた。・・・『紡ぐ者』であることを誰にも感づかれることなく物語を書ける場所、そして、あひるとの約束を果たすことができる生活を。まだ、学費も含め、経済的には自立してはいなかったが、日々の生活を維持するために必要な雑事は、過去の経験のおかげでなんとかこなすことができた。

そう、学園にはいまだに通っていた。この件に関してはあひると一悶着あったが、結局ふぁきあが折れた。確かに周囲との折り合いや将来のことを考えれば、あひるの方が正しかった。あひるはふぁきあがバレエを続けるべきだと強硬に主張した。もっともあひるは、ふぁきあがそうしたがっていると思っているようだったが、それは正確には違っていた。ふぁきあにとってバレエは手段であって、目的ではなかった。無論踊ることは好きだったが、本当にかけがえのないものは別にあった―昔も、そして今も。ふぁきあはそれを守るためにバレエで自立しようと決めた。しかしふぁきあは、そのことをあひるには言わなかった。この話は結論が出た後、それきりになり、二度と蒸し返されることはなかった。

湖畔の家とその周辺にいる間は、ふぁきあはあまりあひるに構うこともなく、距離を置いて過ごしていた。しかしあひるを伴って外出する時はほとんどあひるから目を離さなかったし、あひるを置いて必要以上に家を空けることも決してなかった。カロンの家ですら、週末毎にあひるを連れて訪ねる以外は立ち寄ることもなかった。ふぁきあは、みゅうとがいた頃に比べれば遥かに他人への応対は良くなってはいたが、人付き合いが悪いことに変わりはなかった。

こうして表面上は、物語に支配されていた頃の生活の続きが、多少の変更を加えながらも、滞りなく継続されていた。・・・ただ、あの数日後に行われた進級試験を怪我のために受けられず、ものの見事に留年してしまったということ以外は。
 
 
 

あおとあは促されもしないうちに勝手に外套を脱ぎながら、いつもと変わらぬ飾り気の無い室内を無遠慮に見回した。

「まだ何も準備してないのか?今日はもう待降節最後の日曜日だぞ。いくら先日まで・・・」
「いいだろ、別に」

ふぁきあは不機嫌そうな声で遮り、さっさとあおとあに背を向けた。あおとあが言いかけたことは分かっていたし、聞きたくもなかった。それに実を言えばふぁきあは、待降節に入るずっと前から密かに用意していることがあった。だが、そんなことを教えてやる義理は無い。

「不信心は先祖譲りか」

あおとあは軽蔑するように鼻を鳴らし、ばたばたと飛び跳ねながらテーブルの上の物をつついて散らかし回っている―本人は片付けているつもりだったのだが―黄色い塊に目を移した。テーブルに戻ったふぁきあが手早く紙束を片付け、ついでにすっと手を伸ばしてそのふわふわした塊の首筋辺りに指を差し入れ、掻くように撫でた。
 
 
 

華奢な体を包む、柔らかく頼りない黄金色の羽毛。あの日から半年以上が経とうというのに、あひるは雛のままだった。が、ふぁきあは今に至るまで、それに対して意識的には何もしていなかった・・・つまり、物語の力を使ってそれを変えることも、変えないことも。あひるは特に不思議に思わないのか、何も言わない。ただふぁきあは極力、あひるを人目に晒さないようにしていた。ふぁきあがいない時はあひるは湖で鳥仲間と過ごすことが多かったので、たいして問題は無いようにも思えた。ただ、そうは言っても、そこに確かに存在しているものを完全に隠しきれるはずもなかったが、幸いなことにこれまでのところ、不可思議なアヒルのことが問題になったことはない。金冠町が物語に支配されていた頃―どんな不自然なことも、もともとそういうものだと思い込まされていた頃―の感覚がまだ残っているのかもしれなかった。

あの物語を終わらせてから一週間と経たないうちに学園は夏休みに入り、ふぁきあ達は新しい生活を始めたが、その平安はじきに破られた。物語を覚えていた、と言うより、驚異的な根性で記憶を引きずり戻したあおとあによって。これはふぁきあにも予想外の事態だったが、正直なところ、何もかも自分の書いたとおりになるわけではないと分かってほっとした。だが、だからといってこのずうずうしい客の―それでなくとも、ひっそりと暮らしたいふぁきあにとって、客など煩わしいだけだった―不愉快さが減るわけではなかった。しかしあひるがあおとあが来るのを喜んでいるようだったので、ふぁきあも歓迎はしないものの、追い返したりはしなかった。他の人が皆あひるのことを忘れてしまった今、あひるにとってあおとあは、ふぁきあ以外でただ一人、思い出を共有している人間だからかもしれない、とふぁきあは考えた。

(俺だけではやはりダメなのか・・・)

その認識はふぁきあを憂鬱にさせただけでなく、あひるのために『特別な』物語を書くべきなのではないかという迷いも生じさせた。けれどあひるにそれを訊くのはなんとなくためらわれ、ふぁきあは踏み切れないでいた。

ふぁきあの葛藤をよそに、あおとあは長い休みの間中、湖畔の家に入り浸り、休みが明けてからもしばしばやって来てはふぁきあを苛つかせたり、あひると噛み合っているんだかいないんだか良く分からない会話をしたりしていた。・・・そんなことを気にしていたのはふぁきあだけだったが。もちろんあおとあは、あひるがアヒルとして不自然なこともちゃんと認識していたが、そのことについてふぁきあにうるさく尋ねて不興を買うようなことはしなかった。それは実際、あおとあとしては奇跡的なほどの配慮ではあった。
 
 
 

あおとあはアヒルと男の間の異様に親密な空気にたじろぐでもなく、また、誰も席を勧めようとしないことを気にする様子もなく、真っ直ぐテーブルに歩み寄り、手に持っていた紙袋を置いた。

「あひる君もすっかり元気になったようだな」

全く感情のこもらない口調でおざなりに言ったあおとあに、あひるは元気良く羽を広げてみせた。

<うん!パンもいっぱい食べられるようになったよ>
 
 
 

結局、思い出させられるのか。ふぁきあは筆記具を壁際の棚に仕舞いながら、渋い表情で溜息をついた。実は三週間ほど前、寒さのためかあひるが体調を崩し、ふぁきあは心臓の凍るような思いを味わった。これまで遭ったどんな危険にも、これ程の強い恐怖を覚えたことはなかった。・・・ただ一度、幼い日の悪夢のような出来事を除いて。

ふぁきあは物理的に可能な限りの手立てを尽くしたが、あひるの具合は一向に良くなったようには見えなかった。暖炉の前に置いたあひるの寝床の脇にうずくまり、抱えた膝の間に頭を突っ込んで、ふぁきあは不安に押し潰されそうになりながら、激しく煩悶した。やはり体が雛のままなせいで寒さに弱いのだろうかと―そしてそれは自分のせいなのではないかと。

<うぅ・・・ん・・・>

ふぁきあははっと顔を上げた。しかしあひるは相変わらずぐったりと寝床に伏したままで、辛そうに浅い呼吸を繰り返している。自分も息が苦しいと思うのは気のせいだろうか?もしこのままあひるの息が止まってしまったなら、自分も死んでしまうような気がするのも?

背筋にぞくりと寒気が走った。あひるがいなくなることになど耐えられない。あひるを失って、希望を見出せるとは思えなかった。導く光が無ければ、ふぁきあもふぁきあの物語も道に迷ってしまう。物語を再び悲劇に向かわせることだけは許されない。

(だが・・・)

ふぁきあは人生の岐路とも言うべき困難な選択を迫られていた。自らに課した禁忌を破って運命に干渉するか。あるいは希望の失われた物語を紡ぎ始める前に、自らの腕を切り落とし、あひるの後を追うか・・・

「・・・ぁ・・・」
「あひる?」

あひるが掠れた溜息のような声を洩らし、ふぁきあは思わず手を伸ばして、くせ毛の飛び跳ねた頭から小さな背中にかけてそっと撫でた。何度も何度も、力づけるように、撫で続けた。

(・・・あひる・・・!)

以前は不用意に物語を書いたことで大切な人達を失った。今度は書かなかったことで失くしてしまうのか?

(俺は・・・)

幸いにしてふぁきあが決断を下す前にあひるは回復の兆しを見せ始め、ふぁきあはあひるの看病に意識を集中させて、疑惑と迷いを頭から追い出した。けれど一つだけはっきり分かったことがある。あひると自分は不可分なモノ。あひる無しで生きていくことはできない。紡ぐ者として希望に満ちた物語を保ち、徒に人々の運命を乱したりしないために。

(・・・それだけか?)

そう、それだけだ。それ以上の何かを望んでいるわけでは・・・ない・・・
 
 
 

あおとあがバカにしたように薄ら笑いを浮かべた。

「まあ当然か。そこの誰かが授業もすっぽかして医者だ薬だと走り回っていたからな。今にも自分が死にそうな血相で・・・」
<えっ、そうだったの?>
「あおとあ!」

湯を沸かしていたふぁきあが素早く振り返って語気鋭く咎め、あおとあは睨めつけられて肩をすくめた。

(ふぁきあ、ほんとに心配してくれてたんだ・・・)

あひるが目覚めてからのふぁきあは、いつも通りぶっきらぼうで、素っ気なかった。あひるの世話は何一つ手抜かりなくしっかりと看てくれたけれど。

(やっぱりふぁきあは優しい)

強い気持ちが込み上げ、あらためてふぁきあへの感謝で胸が熱くなった。感謝?そう、これは感謝だ。あんなことを言われたからって、身の程を忘れておかしな幻想を抱いたりしない。
 
 
 

あひるの体調がだいぶ回復してきたある日、あひるに食事を摂らせながら、ふぁきあは溜息混じりに呟いた。

「もう大丈夫そうだな。一時はどうなることかと思ったが・・・」

あひるは寝床からふぁきあを見上げてにっこり笑った。

<うん、もう平気。ふぁきあがいっぱい看病してくれたおかげだよ。ありがとう>
「そんなの愛してれば当たり前だ」

どさくさ紛れにとんでもない単語が聞こえた気がして、あひるはかっと頬を染めてうろたえた。急にまた熱が上がった気がした。

<あ・・・あ、あ、あ、愛?>
「バカ、愛って言ったって色々あるだろ。親愛とか友愛とか」

間髪を入れずに返ってきたふぁきあの言葉に、冷水を浴びせられたように一気に頭の熱が引いた。どうして胸が痛むのか分からない。あひるは痛みを宥めるようにゆっくりと息を吐き、笑顔を浮かべた。

<ああ、うん、あたしたち、何でも話せる大事な友達だもんね。ふぁきあもそう思ってくれてて、嬉しいな>

一瞬間があって、ふぁきあが微笑み返してくれた。

「一緒にいる以上は家族だしな」

家族。その言葉をどう受け止めていいのか、家族を知らないあひるには分からなかったが、とりあえず、ふぁきあは自分を大切に思ってくれている。それはとても幸せなことだと自分に言い聞かせた。あひるは顔に笑みを貼り付けたまま、ふぁきあに頷いた。
 
 
 

<そんなに心配かけてたなんて知らなかった・・・ゴメンね、ふぁきあ>

あひるはテーブルに戻ってきたふぁきあを見上げ、少し首を傾げて顔を覗き込んだ。火のそばに立っていたせいかほんのり赤い頬をしたふぁきあは、目が合うと、ついと顔を逸らしてしまった。

「あおとあが大袈裟に誇張してるだけだ。こいつは他人が苦労してるのをハタで冷やかすのが趣味だからな」

ふぁきあの言葉を聞いてあおとあが鼻を鳴らした。

「僕だって図書館でいろいろと調べてやったんだ。感謝してもらいたいね」
「嫌がってさんざん文句を言ってたじゃないか」
「そうだが、君がひれ伏して頼むものだから僕も憐れに・・・」
「・・・お茶を飲む気があるのか?」

ふぁきあがお湯をティーポットに注ごうとしていた手を止め、辺りを凍らせるような冷え冷えとした低い声で訊いた。だがあおとあは全く意に介せず、鷹揚に頷いた。

「いただこう」
 
 
 

あひるの体調がだいぶ回復してきたある日・・・その夜、ふぁきあはいつもと同じようにあひるの傍らに座り込んで、安らかな寝顔を眺めながら、昼間のやり取りを苦い気持ちで思い返していた。「愛している」と口走ってしまったのはほんのはずみだった。自分でも驚いたが、もっと意外だったのは、あひるの反応にひどく傷ついたことだった。

唐突にあんなことを言われてあひるが面食らうのは当たり前だ。けれど、あひるがたじろいだことが、なぜかショックだった。とっさに言い繕ったが、それに対してほっと安堵した様子で溜息を洩らしたあひるが、更にショックだった。ひどく不快な気分だったが、ふぁきあは、あひるを揺さぶりたいような衝動をなんとか堪えて笑顔を作り、なるべくさりげなく聞こえるよう努力して言った。

「一緒にいる以上は家族だしな」

あひるが満足そうに頷くのを見て、これで良かったのだと自分に言い聞かせた。

あひるは穏やかな表情で眠っている。その息があまりにも静かで、ふぁきあはふと不安に駆られた。それはずっと不安の中に身を置いていたためにそこから抜け出せなくなっていたのかもしれないし、あるいはずっとほとんど眠れなかったせいで精神が不安定になっていたのかもしれない。ふぁきあはそっと右手を伸ばしてあひるの体の下に差し入れた。正常な体温と確かな鼓動が伝わり、ふぁきあはほっと息を吐いた。しかしそのままじっとあひるを感じていたふぁきあの心に、再び暗い不安の翳が忍び寄ってきた。自分よりずっと早い速度で脈打つあひるの鼓動―生命に等しく与えられた回数を、自分よりずっと早く打ち終わってしまうあひるの鼓動。ふぁきあは火に触れたように手を引き抜き、既に白い筋になっている傷痕から血が流れでもしているかのように左手でぎゅっと握り締めて胸に押し付けた。言いようの無い焦燥感が体の中を駆け巡り、ふぁきあはきつく唇を噛み締めた。
 
 
 

眉間に皺を寄せたままティーカップを配るふぁきあの様子も、あおとあは全く気に留めてはいないようだった。

「ああそうだ、君が何も準備していないことは予想がついていたから、土産を持ってきてやったぞ。多少なりとも待降節らしいものをね」

もったいぶった口調で恩着せがましく言い、ガサガサと紙袋を広げるあおとあの手元を、あひるは精一杯背伸びして覗き込んだ。

<なになに?『待降節』ってどういう意味?なにかいいもの?>

紙袋の中からは干した果物と木の実がたくさん入ったパンが出てきて、あひるは目を丸くした。

「フリュヒテブロートか」

表情を緩めてふぁきあが呟いた。

「シュトレンは甘すぎるかもしれないと思ってね。僕も色々と配慮してやっているんだよ。これなら君もあひる君も食べられるだろう」
「あひるは結構なんでも食べ・・・」
<すごい!おいしそう!あおとあっていい人だったんだね!!>

羽ばたきながら踊るように飛び跳ねるあひるに、ふぁきあの言葉が途切れた。

「お前・・・パンをくれたらいい人なのか・・・」
「どうやら喜んでもらえたようだな。僕の予想は正しかった」

あおとあはあひるを見遣って唇の端を上げ、ふぁきあに向かって勝ち誇ったようにわざとらしく鼻で笑ったが、ふぁきあはもう何も言わなかった。


 

 続き Fortsetzung

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